<スポンサーサイト>

2010年12月28日火曜日

東京拘置所入所

 検察事務所の檻の中は、一見小さな病院の待合室の様な雰囲気ではありましたが、あくまでもそこは檻の中であり、檻の外では検察事務官が、保釈金の決定やら手続きやらの電話を忙しそうに受けたりかけたりしていて、とても非日常的な光景でした。
 檻に入って30分もすると弁護士がやってきて、やたらとニコニコしながら「求刑7ヶ月が3ヶ月で済んで良かったです。3ヶ月なんてあっという間ですから、ちょっと長い休暇をとると思って頑張ってきてください。」などと言いやがりました。(...コイツ、なんかズレてるな。人の気持ちをわかっていない。)そう思いましたが、とりあえずお礼を言い、残金の支払いは妻に話をしてあることを伝えて、あとは弁護士の話にうなずいていました。 弁護士にとってはこれで一件落着かもしれませんが、私にとってはこれから始まるのです。3ヶ月だろうが1ヶ月だろうが、檻の中の長い休暇など誰が望んで行くものか。
 それからまたベンチに一人で待ち続け、5時半になってやっと先ほど私をこの檻に放り込んだ検察事務官がやってきました。
 「それではこれから拘置所の方に移動します。」と言い、おもむろに手錠を掛けられて、私は1ヶ月ぶりに再び囚われの身になってしまいました。
 紙袋に詰められた自分の荷物を持ち、手錠をはめられたまま長い廊下を歩いて、エレベーターを2台乗り継いで外に出ると、待っていた黒塗りのべったりスモークの貼られたワンボックスに乗りました。
 後の席には、既に二人乗り込んでおり、一人はスーツ姿でもう一人は手錠をはめられた、ポロシャツ姿の若い男性でした。
 車が走り出すと、後部座席のお兄さんはいきなり大声で話し出しました。
 「どうしていきなり捕まえに来て、そのまま拘置所なんですか!誰とも連絡とらせてもらえないなんてひどいじゃないですか!たかが交通違反の罰金を滞納しているからって、こんな仕打ちはおかしいじゃないですか!!」
 検察事務官と思われる人が、「あなたの気持ちも分かるけど、これが社会秩序を守るための法律であり、規則なんです。」
 「法律だろうが規則だろうが、私にも仕事も生活もあるのに、70万払わないだけでいきなり手錠をかけられて拘束されるなんて、おかしいでしょう! このまま拘置所に入って誰とも連絡がとれなくなれば、親も心配するし、会社はクビになるし、アパートだって住めなくなるじゃないですか!!」
 しばらくお兄さんは大声でまくし立てていましたが、隣に座る検察の人は極めて落ち着き払った様子で、淡々と「これが法律である」ことを繰り返すだけなので、お兄さんもしまいには静かになり、どうやらシクシクと泣き出してしまったようでした。
 話を聞いた様子では、彼は交通違反の罰金を半年滞納して支払わずにいたため、いきなりアパートに検察官がやってきて、手錠を掛けられ拘束されてしまい、そのままこの車で拘置所に連れていかれるようでした。
 私も何度か交通違反の罰金を滞納したことがありますが、やはり噂通り逃げ続ければ手錠をかけられて、強制的に労役に服さなければならなくなるようです。
 拘置所に入って後からわかったことですが、拘置所内には結構この手の方が入っており、独房の鉄の扉に「労役」の黄色いシールが貼られています。彼らは1日当たり5000円で拘束され、70万であれば140日間拘置所に入らなければなりません。「労役」といっても特に強制労働を強いられるわけではなく、他の受刑者と同じように平日独房内で袋貼り作業をすることになります。しかし、この作業が5000円に当てられるわけではなく、拘置所に拘留されること自体が、1日当たり5000円の計算になります。
 後の座席でのやりとりがおさまって静かになった頃、車は首都高の渋滞を抜けて6時半頃高速を降り、巨大要塞の大きな鉄の門をくぐりました。
 道は建物の地下に吸い込まれて、また大きな鉄の扉の前で止まりました。15分ほど待つと、扉が開き、地下道を走って広いロータリーを半分回ったところで停車し、私は検察事務官に促されて車を降りました。
 10人ほどの制服を着た無表情の看守に囲まれ、体育館のような天井の高い広い部屋に入り、床に貼った白い線の前で立たされ、しばらく待つとカウンターに座る看守に手招きされて、名前、住所等を確認されて、「次に荷物を預けて」と指さされる方に行きました。
 そこで私物の一つ一つを念入りに確認し、種類別にビニール袋に入れられて、部屋に持ち込めるものと持ち込めないものを区別されて、持ち込めないものは半透明のプラスチックケースに入れられて、そこでイソイソと働く緑色の作業服を着た受刑者に持ち運ばれてしまいました。
 荷物の確認が済むと、今度は別の囲いのある場所に行き、パンツ一丁になると、身長と体重をはかり、視力検査をされました。
 そのあと、銭湯の番台のようなところから、「パンツを脱いで、竿をもちあげろ」と言われ、私は「?」と何のことかわからずモジモジしていると、番台に座る看守にジェスチャー混じりで「竿を持ち上げるんだよ!」と怒鳴られ、私はやっと意味が分かり指示に従うと、今度は「後を向いてケツの穴を見せろ」と強い口調で言われ、私は何故かヘラヘラしながら「ハイハイ」と後を向いて中腰でケツの割れ目を開いて見せました。
 これは、いわゆる「玉入れ」の確認と、ケツの穴に何かを隠していないか(例えば覚醒剤とか)確認をしているらしく、「玉入れ」とは男性器の竿に真珠などを埋め込んでいないかをチェックしているようでした。
 金玉やケツの穴を、このような格好で、何人もの他人様にお披露目したことなど、これまで一度もなかったので、とてつもなく恥ずかしいことではありましたが、これも逆を考えると、看守は毎日何人もの汚い金玉やケツの穴を拝見しなければならず、それもまた辛いことだろうとは思います。
 その後、最後に医師による簡単な問診があり、夕食のドンブリが入ったビニール袋を渡されると、他の入所者3人と整列して体育館のような部屋を出ました。
 長い廊下を歩き、エレベーターの奥の壁側を向いて乗り、降りてからまた長い廊下を歩いてセキュリティーのかかった扉を開くと、そこには広い廊下の両側に何部屋もの独房が並んでおり、私はそのなかの一番隅の一室に入るように促されました。
 とりあえず食事を済ますように言われ、冷えたドンブリ飯とアジのフライのようなおかずを食べ終わり、暫くすると担当の看守がやってきて、ここでの生活を説明するマニュアルを熟読するように言われました。
 看守が出て行って重い扉が閉まり、とうとう私はこの3畳一間、囲いのないトイレ洗面台付き、1TSの間取りの独房の住人になってしまったのでした。
 

2010年12月21日火曜日

~閑話休題~

 「閑話休題」と題するほどのことではありませんが、これを読んでいただいている方のために、現在の私の話を書いておきたいと思います。

 このブログを始めたのが11月末ですが、今日、12月20日の私はとりあえず生きております。
 生活もままならず、私のプロフィールに書いているまんまの状態です。ただ、沢山の人たちに支えられたおかげで、死ぬことよりも生きることを選択したことが間違えではなかったと、今、この時点でもそう思えます。
 現在私は車に乗れないこともあり、自宅でテレホンアポインターの内職をしながら、元の会社の内容を変えて、ネットでの設計業務の請け負いを立ち上げたばかりです。まだ実になってはいません。
 8月10日に出所してから、がむしゃらにガテン系の現場作業で体を酷使して、熱射病で倒れたりもしましたし、とにかく死ぬほど、いえ、死んでもいいから家族を食わせるために必死になりました。
 けれど体は正直で、寄る年波もあってかあちらこちら体が悲鳴をあげはじめ、結局肉体労働をすることが出来なくなってしまいました。
 私は土建屋の息子であったこともあり、肉体労働自体が好きで、体が続く限りそれで良いと思っていました。単純にスコップを持って穴を掘ることに男のロマンを感じるくらいでした。
 ですから、体を使えずに仕事をすることほど苦痛なことはありません。それでも今は、内職や本業の設計業務や、このブログを書くことによって生きていることを実感しながら生活していると言っても過言ではない状況です。
 でも、私が私であり続ける以上、目の前にある現実を生きて、生き続けなければいけないし、どうにかして自分の人生は続けるべきなのです。その中で大切なものが何なのか、これから考えなければいけないことが何なのか、私は人として生き抜くために、それを思い考えながら生きることを選びました。自分のために、家族のために、私を信じてくれている人のために。
 私から離れていく人たちも沢山います。あたりまえのことですが、人は自分の利を中心に考えているから、そうなります。どんなに熱く語り合い、どんなに仕事を愛して心を繋いでいた人であれ、人生や人間の評価の中で落ちこぼれたことがわかれば、アッという間にいなくなります。電話をかけてもつながらなくなってしまうのです。悲しいことですが、もしかしたら私も逆の立場だったらそうしていたかもしれません。
 とにかく、今、私は自分の仕事を人生を精一杯、一生懸命生きようと努力している最中です。
 家族がいて、私を信じてくれている人がいて、私が生きているからこそ、その愛をいつか還そうと思って毎日を送っています。
 どうか、今つらい状況にあるひとがいれば、もう一度周りを見回してください。
 大切なこと、大切な人、大切なものは、きっとあなたの周りにたくさんあるはずですから。

2010年12月18日土曜日

判決の日

 5月10日 月曜日。
 この日も公判の日と同じように、空はどんよりと曇っていましたが、もうすぐ来るだろう梅雨を思わせるような、空気がじめじめと肌にまとわりつく天気でした。私は午後2時10分の判決に間に合うように、11時半の電車に乗るため妻に駅まで送ってもらいました。
 弁護士には、当日になって裁判官の気が変わらないとも限らないので、出来るだけ大勢で来てもらうようにと言われていましたが、この時点で私も妻も弁護士の言葉をあてにはしていませんでしたし、少しでもショックが少ないように、最悪の状態になることを考えており、はじめから諦めていました。
 妻と話し合って、判決当日は一人で行くことに決めていました。
 前の日の夜、子供たちとお風呂に入ったとき小学校3年生の次男には、「明日からパパはまたしばらく仕事で家に帰れないから、ママとお兄ちゃんと妹を守ってくれよ。」と話し、次男は多少おちゃらけてはいましたが、「わかりました、お仕事頑張ってきてください。」と言ってくれ、いつの間にか少しずつ、たくましくなっている息子の成長を感じて目頭が熱くなりました。
 手の掛かる3人の子供たちの子育てと家事を、普段は気丈にこなし、涙など見せたことのなかった妻も、前の晩はベッドの中で声をあげて泣き、私は「本当にごめんな」と謝りながら、彼女を抱きしめるしかありませんでした。
 駅に着き、2歳半の娘にキスをして「じゃ、行って来ます」と手を振って駅への階段を昇りました。
途中何度も振り返りそうになりましたが、振り返ると泣けてしまいそうで、つまづきながら早足で改札に向かいました。
 上野駅で立ち食いうどんを食べて腹ごしらえをし、電車を乗り継いで東京地方裁判所に着いたのは1時半頃でした。
 弁護士との待ち合わせ時間ぎりぎりまで、何度も入るのをためらい、裁判所に入った時は2時を過ぎていました。
 ホールで弁護士と落ち合い、エレベーターに乗って第528法廷に入りました。目つきの悪い検事と若い女性検事も入廷し、傍聴席には世田谷警察署で取り調べを受けた、2人の司法警察官の姿も見えました。その他、次の公判の関係者なのかわかりませんが、全く知らない人が5,6人はいたでしょうか。
 2時10分きっかりに裁判官が入廷し、全員起立して一礼をすると、早速裁判官から「それでは判決を言い渡しますので、被告人は前へ」と促され、私は裁判官の前に立ちました。
 「主文、被告人を懲役3月(さんがつ)に処する・・・・・。」
 「被告人は平成14年に免許取消処分となるも、・・・・・したがって、当法廷では被告人を・・・・・とみなし、・・・・・被告人には反省の態度がうかがわれるが・・・・・」
あれれれれれれれれれれれれ、、、、、
 いつまでたってもこの裁判官は、”この裁判確定の日から◎年間、その刑の執行を猶予する”と言わない、言わない、言ってくれない・・・・・。
 わかっていたこととは言え、諦めていたとは言え、私はやはりどこかでかなり大きく期待していたのでした。
 とうとう、「最後に被告人から何か言いたいことはありますか。」と言われてしまい、私はぼーっとしたまま、「ハイ、大変深く反省しております。申し訳ありませんでした。」と、多分言ったと思う。
 「それではこれで終わります。」全員起立して一礼をした後、私はぐったりとイスに座りました。するとすぐさま私の両脇に、体格の良い背広姿の人が二人来て、私に検察官手帳のようなものを見せ、「これから別の部屋に移動しますので、一緒に来てください。」と言われて、私は捕らわれた宇宙人のように二人に挟まれ、入った入口とは反対の、裁判官や書記官が入廷してきたドアから法廷をでました。
 廊下の隅の冷たいイスに座らされ、ベルトや靴ひも、時計や金属類と携帯やハンカチも、持ち物全てを取り上げられ、何かの書類に指印を押した後、また二人に挟まれて、エレベーターに乗り、地下で降りて長い廊下を歩いて、またエレベーターに乗り、迷路のような廊下を歩いて、やっとある部屋にたどり着きました。そこはどうやら検察事務局の一室らしく、20人ほどの検察事務官が忙しそうにはたらいていました。部屋の片隅に鉄格子の檻があり、私はその中のベンチで待つように言われると、鉄の扉に鍵がかけられました。
 中には雑誌や漫画が置いてありましたが、私は到底読む気になれず、腕を組んでずっと俯いていました。
 壁に掛けられた時計は2時40分でした。

2010年12月15日水曜日

裁判のあと

 私の身の上話による情状酌量作戦は、どうやら失敗に終わったようでした。弁護士と裁判官、検事は今回の裁判について事前に打ち合わせているにもかかわらず、弁護士からの被告人質問で、2度も裁判官から質問をさえぎられ、かえって心証を悪くしてしまったのです。
 人生は筋書き通りにはいかないものですが、この裁判であらためてその事を実感する羽目になりました。
 
 その後、私は現場作業をしながら、会社の後始末と再興のための方策を練り、金策に走ったりお客様に謝罪して回りました。これから刑務所に入るかもしれない人間に、お金を貸してくれる奇特な人はいるはずもなく、お金をつくることは出来ませんでしたが、お金を返さなければならない筈のお客様には、返済を待ってくれるばかりか、私を励ましてくれる方もおり、人の心の優しさに、ありがたくてありがたくて、心から感謝するばかりでした。

 5月のゴールデンウィークは、現場のスタッフも自主的に休み返上で仕事に出てくれました。お陰で判決の1日前に、なんとか現場を納めることができました。
 連休最終日の5月5日だけ休みをもらい、私は家族と霞ヶ浦にでかけました。私は2歳の娘をベビーキャリアで背負い、小学校3年生の息子と二人で自転車道を十数キロ走って霞ヶ浦に向かいました。妻と長男は車に乗ってヨットハーバーで待ち合わせ、みんなで遊覧船に乗りました。
 さすがに連休中だけあって、けっこう人も多くて座席には座れませんでしたが、子供たちは初めて乗る船と、目の前の水しぶきに大はしゃぎでした。
 遊覧船を降り、近くの公園で妻の作ったお弁当を食べて帰りました。
 たったこれだけの子供の日のプレゼントに、楽しそうにはしゃぐ無邪気な子供たちを見ながら、もしかすると、この子たちともしばらく会えなくなるかもしれないと思うと、涙がこぼれそうになりました。
 子供たちは何かを予感しているのか、今までに増して無邪気で、長男は私に抱きついてくるし、次男は学校でのことや、少林寺での出来事を話すし、娘は初めて私と一緒に寝たいと言ってくれました。仕事や酒飲みばかりで、子供たちが起きている時間に帰ることが、ほとんどなかった父親を、無言で許してくれているかのようでした。
 妻が長女を寝かしつけているときにかけている、オルゴールのCDの音楽を聴いて泣き、初めて次男の授業参観に行って、息子の姿を見て泣き、私はもう死んでしまうかのように、これから会えなくなるかもしれない家族のことを考えて泣きました。
 それがほんの数ヶ月であろうと、私には家族と離ればなれになることが、本当に辛かったのです。

2010年12月12日日曜日

裁判

 テレビドラマでよく見るシーンですが、まず初めに被告人が中央に立ち、裁判官から被告人に氏名・年齢・職業・住居・本籍を尋ねます。あれと全く同じ状況で、私も人定質問を受けました。その後検察側から起訴状の朗読があり、被告人が誰であるか、被告人がいつどこでどんな悪いことをしたか 、それは何法の何条の何罪にあたるのか、などを結構な早口で読み上げられます。この時は、目つきの悪い太った検事ではなく、隣に座っていた若い女性検事からでした。どうやらこの方も検事のようで、まだ見習いなのか時々隣のデブに文章を確認したりしながら、つっかえつっかえの朗読でした。
 そして裁判官から「被告人は自分に不利になるよ うなことは言わなくていい」ということを伝えられます。これは別に言わなかったとしても被告人に不利にはならないという事も含まれます。
 裁判官から実際に起訴状にあるような悪いことをしたのかどうかを確認され、私は起訴状通りであることと反省していることを、弁護士から書かれたシナリオ通りに話します。ここで内容の一部が違うとか否認となると、検察と弁護側が争う形になりますが、私は無免許運転の常習者であり、検事がよみあげた起訴状は、非の打ち所のない完璧なものでしたので、「そのとおりです。」と平伏さんばかりに頭を下げました。
 そして弁護人から被告人質問があり、これも事前に弁護士が用意したシナリオにしたがって、打ち合わせ通り進められます。
 以下、私の上申書を元に弁護士さんが作った、事前に送られた被告人質問のシナリオの一部です。

       <事件について>
・あなたは、今回、世田谷区三軒茶屋の路上で無免許運転の現行犯で捕まってしまったわけですが、なぜ、○○市在住のあなたが世田谷区内を走っていたのですか?→世田谷区内に仕事上のお客様がいて、仕事で見積もりに伺う途中でした。
 ○○市在住のあなたが不案内な東京都内を無免許で走ることに躊躇はなかったのですか?無免許なんだから電車で行こうとは思わなかったのですか?→もちろん躊躇はありました。でも、その日はちょうど体調をくずして昼まで家で寝込んでいましたし、お客様の家が最寄り駅から遠かったからです。
体調が悪かったのはともかく、駅から遠いからというのは理由になると思いますか?→いえ、今では電車でいくべきだったと思っています。とても反省しています。
  警察官に無免許であることがわかってしまったきっかけは何でしたか?→進路変更禁止の場所で進路変更をしたことです。
     警察官から免許提示を求められたときはどのような気持ちでしたか?→すぐに仕事のこと、家族のことが頭に浮かび、後悔の気持ちで目の前が真っ暗になりました。
     あなたは、社会人として法律を遵守するという当たり前の意識に欠けているとは思いませんか?→3人の子供の父親なのに、社会のルールが守れなかったことをとても恥ずかしいと思っています。今回、検挙されてしまったのは、当然の結果だと思っています。
      
     <家族関係>
     あなたは奥さんの他、3人の子供がいるとのことですが、肉親はそれだけですか?→いえ、一緒に住んでいるのは私をいれて5人ですが、自宅から車で10分くらいのところに両親が住んでいます。弟が2人と、別れた妻との間に3人の娘もいます。
     3人の娘さんとは会ったりすることはあるのですか?→ここ10年近く会っていません。
     前の奥さんと別れた原因は何だったのですか?→私は現在の会社を始める前は、父の経営する建設会社にいたのですが、その会社の経営が苦しくなって、妻の実家に100万ほど借金したのがきっかけです。
     奥さんが自分の実家に借金をしたことに怒ったということですか?→いえ、怒ったのは、妻の実家の方で、100万を貸すかわりに妻と娘達を里帰りさせるのが条件だと言って妻たちをひきとってしまいました。
     奥さんたちが実家に引き取られてからはどうしていたのですか?→妻のところに毎週週末に必ず行っていました。
     では、なぜ奥さんと別れたのですか?→離れて住むうちに妻が浮気をしたからです。
     奥さんの浮気相手とは交渉はしたのですか?→はい。妻の浮気が発覚してから,妻の浮気相手に、自分にも妻子がいるので40万円で示談してくれないかと言われました。
     40万は受け取ったのですか?→いえ、その男に、金はいらないからどうか妻と別れてくれといいました。でも,妻のほうが心変わりしてしまって離婚せざるを得ませんでした。
     では、次に今の奥さんとの生活について聞きます。今の奥さんと再婚する際,奥さんの連れ子に障害があることを知って再婚したということですよね?→はい,長男の発育が同世代の子供よりかなり遅れていたことは,私も子供を育てたことがあったので,よくわかっていました。
     そのようなお子さんがいるのに,再婚についてのとまどいやためらいはなかったのですか?→はい,一人で障害のある子供を抱えている彼女を助けたいという気持ちが先でしたし,私自身も離婚して,とても寂しい毎日だったからです。父には反対されましたが,絶対妻と子供を幸せにしたいと思いました。
     奥さんの証言では,あなたは連れ子の長男の面倒をみているそうですが,あなたは父親としての義務感で面倒を見ているのですか?→いえ,そうではなく,長男がかわいいからです。よく私と長男は顔が似ているともいわれます。
     お子さんは養護学校に行っているそうですが,歩けないのに,どうやって学校に行っているのですか?→車で送り迎えをしています。
     だれが車で送り迎えをしているのですか?→ほとんど妻ですが,妻の負担を少しでも軽くしようと思って私が送り迎えをしたこともあります。申し訳ありません。
      
     <あなたの仕事について>
     あなたはさきほど,お父さんの建設会社で働いていたといいましたが,その会社はどうなりましたか?→2回の不渡りを出して,結局倒産してしまいました。
     いつ倒産したのですか?→平成13年で,妻と入籍する1ヶ月くらい前でした。
     弁第1号証によると,あなたはお父さんの会社の連帯保証人になって,保証債務の支払いをしたようですが,いくら払ったのですか?→旧会社名が日栄で,今はロプロという会社から,500万円を支払えと言われ,5年かけて全額払いました。
     それはお父さんの会社が倒産したあとですか?→はい。
     そのころあなたに500万円払う余裕はあったのですか?→いえ,父の会社が倒産した平成13年に自分の会社を作ったばかりで,その年に今の妻とも再婚したので,経済的にはとてもきびしかったです。
     それなのに払ったのはなぜですか?→ヤクザふうの男が2人連れで私の会社にまで押しかけてきてすごむので,会社と社員を守るため,払わざるを得ませんでした。
     お父さんの関係で借金を払ったのはそれだけですか?→あと,父の友人もしょっちゅう会社にやってきて金を返せというので少しずつお金を渡していました。
     その借金についても連帯保証人になっていたのですか?→いいえ、でも法的には払う義務はなくても、父が迷惑をかけた以上、払わざるをえませんでした。
     その人にはいくらくらい払ったのですか?→100万以上は払ったと思います。
     お父さんからは少し返済はあったのですか?→いえ,ありませんでした
     今回のあなたの逮捕で辞めた従業員はいますか?→事務をやっていたSさんという人がいましたが,私の逮捕のせいで会社の業務が止ってしまったため,やめてしまいました。
     会社の経営はあなたがほとんどとりしきっているのですか?→現場の仕事は外注に出すこともありますが,注文をとってお客様と打合せをしながら設計を行う段階まではほとんど私が一人で指図しています。外注に出した分も必ず私が最後チェックを入れてから完成させます。
     あなたが,もしまた身柄を拘束されるようなことになったら,会社はどうなると思いますか?→約1ヶ月私がいなかった間でも業務が止ってしまっていたようですので,つぶれるしかないと思います。
     奥さんがあなたのかわりに働きに出ることはできないでしょうか?→障害があってとても手のかかる長男や2歳の小さい子供がいるので,ここ何年かは無理だと思います。
     あなたが無免許運転をすること自体がそもそも許されないことですなのですから,もしあなたの身柄が拘束されて,会社がつぶれたり,奥さんと小さい子供たちが路頭に迷うことになってもすべて自分の責任だということはわかっていますか?→全て自分の責任です。大勢の人に迷惑をかけて,本当に申し訳ないと思っています。
      
     <前科前歴について>
     取り消しになっても欠格期間がすぎれば免許を再取得できるはずですが,どうして再取得しなかったのですか?→仕事が忙しかったりして取りに行きませんでした。また、免許取消しの欠格期間が終わって再取得が可能になった平成16年12月には、元請け会社の社長に200万円持ち逃げされたりして、教習所に行けるような状況ではありませんでした。
     でも、どのような理由があったとはいえ、きちんと再取得していれば,法律違反にならなかったのですから,仕事が忙しいとか、お金がなかったとかは理由にはならないのではないですか?→本当にそう思います。再取得しない以上、運転は許されないことなのですから、再取得するまで運転すべきではありませんでした。
    道路交通法違反も立派な犯罪だという認識はないのですか?→本当に社会人として遵法精神に欠けていたと思っています。申し訳ありません。
      
     <反省>
     最後にあなたの反省についてもう一度確認しますが、あなたが法律を守らなかったために,家族や会社の人にどれだけ迷惑をかけたか本当に認識していますか?→今回のことでもう,骨身に染みました。
     あなたが大変な迷惑をかけたにもかかわらず,今回,快く嘆願書を書いてくださったり,証人として出廷してくださった従業員の方についてどう思っていますか?→みんなに迷惑をかけたこんな私を支えてくれて,本当にありがたくて感謝の気持ちでいっぱいです。
     車の運転について今はどのように考えていますか?→今後は,いつの日か免許を再取得できる日がくるまで,絶対に車は運転しません。
     再取得できるまで相当時間がかかると思いますが,今回つかまったときに乗っていた車はどうするつもりですか?→当分乗らないのですからもちろん処分します。
     車がなくて、どうやって仕事場に行ったり、お得意先を回るのですか?→仕事場には自転車で行きます。今回のことで、会社の人たちにも私が無免許であることがわかってしまったので、もう会社に車を運転していくことは絶対にできません。お得意先へも従業員に連れて行ってもらうつもりです。
     長男の養護学校の送り迎えはどうしますか?→私はもちろん運転できませんが、それでは妻が大変なので、私の両親に妻を助けてくれるよう頼むつもりです。
     今までもそうすべきではなかったとは思いませんか?なぜ、もっと前にそうしなかったのですか?→自分が無免許であることをまわりに言えなかったことも原因です。今回のことで、かなり大勢の人に私の免許取消しがわかってしまったのはよかったと思っています。
     もう二度と道路交通法違反を含む犯罪行為は行わないと誓えますか→はい、もう二度と社会のルールを破るようなことはしません。これからは、社会人として、父親として、恥ずかしくない生き方をしたいと思っています。

   上記のような内容で、弁護士さんが私が書いた上申書を元にシナリオを作成し、私はこれを必死に覚えましたが、家族関係の質問に入り、前妻の実家に借金をしたことについての質問をされた時でした、裁判官が「弁護人、今回の事件に関係のない質問はしないように」と釘をさされ、それ以上この内容について先に進むことができなくなってしまったのです。
   そして、間をとばして<あなたの仕事について>の質問になり、私の父の会社が倒産し、その借金を保証人として支払った話になったときも、再び弁護人に対して裁判官から注意を受けたのです。
   この時も、弁護士はこの話を先に進められなくなり、間を大幅にとばして<反省>の質問に移りました。
   この時点で、私は予想外の流れに緊張してしまい、頭が真っ白になってしまいました。
   最後には、覚えていたはずの答えを忘れてしまい、しどろもどろになりながら、なんとか被告人質問を終えました。
   その後、妻とWさんに対する情状証人質問があり、これも事前のシナリオ通にはいかず、二人とも緊張のため、正確に答えることはできませんでした。
   そして検察側からの質問を、私と妻とWさんの順番で受けましたが、かなりキツイ質問が多く、何度も同じ事を聞いたりするので、かなり気が滅入ってしまい答えられなくなってしまう場面もありました。
   そして検察側から証拠調べがあり、最後にそれらの事由から実刑7ヶ月の求刑がありました。

   1時間半におよぶ裁判が終わり、私たち3人は疲労感でいっぱいでした。それと同時に、弁護士の不甲斐なさ、頼りなさに余計に気持ちが萎えてしまいました。情状酌量を求めるための方策は失敗に終わったのです
   弁護士さんからは、精一杯やったと思うと言われましたが、3人とも検事の勢いの方がかなり上回っていたことを感じており、実刑はまぬがれないだろうと諦めていました。
   外に出ると、大粒の雨が降っていて、私たちは弁護士と別れ、しばらく無言のまま駅に向かいました。

2010年12月10日金曜日

保釈から裁判まで

 保釈されてから、毎日のようにこれからの事を考えていましたが、1ヶ月後の判決によっては再び拘束されることも考えなければならず、どうしていいのか判らない状態でした。
 ともかく、止まってしまった現場を再開し、工事を完成することが先決だと考え、私も現場に出ることにしました。
 その間、弁護士から連絡があり、4月27日の裁判のための書類作成をしてくださいと言われ、私は上申書、父に陳情書、妻と従業員2名にそれぞれ嘆願書を書いてもらうことになりました。
 私は留置場にいる間、すでに便せん16枚の上申書を書いていたので、それを短くまとめ、父と妻や従業員の文章は、先生が下書きしたものを各々書き写すというものです。それらは先生が、私や妻の話を聞いて作文したもので、父や従業員が考えた文章ではありませんでしたが、妻にとっては「夫が居ないと生活ができない」という内容で、従業員にとっては「社長が居ないと会社が潰れてしまい、私たちも路頭に迷ってしまう」という内容、父の上申書は、「私の(父の)会社が倒産した際に息子にもいろいろと苦労をかけたため、息子は免許がなくなってからも車を運転して仕事をし、家族を養わなければならなかった。知らなかったこととは言え、父親として監督不行届であった。」という内容でした。
 つまり、とにかく本人は反省しているので、周囲の人たちからの情状酌量を求めて、それを元に検事とたたかい、執行猶予をもらうことが最良の策であり、その方法しかないということでした。そしてその勝算はわからず、あくまで50:50だということでした。
 妻や従業員たちは、先生の作文をほとんどそのまま書き写して先生に送ってくれましたが、父は「自分の会社の倒産のことを何故書かなければならないのか?」という点が不満となり、少々親子喧嘩にはなりましたが、最終的には母が一部修正して書いてくれ、裁判直前に送ってもらうことができました。

 4月27日、私と妻と従業員のWさんは、今にも雨が降りだしそうな厚い曇り空の下、朝7時の電車に乗って、霞ヶ関の東京地方裁判所に向かいました。
 電車を乗り継いで裁判所に着くと、裁判所前の歩道で「違法裁判撤廃!」の旗を掲げ、ハチマキをした20人ほどの人たちが、ビラを配り何かを拡声器で叫んでいました。
 私たちは、入口で空港と同じようにX線での荷物検査と身体検査を受け、広いロビーに入り先生を待ちました。
 10時の開廷時間15分前に先生が到着し、私たちは29階の第15号法廷に入りました。まだ、前の裁判が終わっていないようで、10人ほどの人が傍聴席に座っており、検事と弁護人と被告人も座って、裁判官の入廷を待っている様子でした。
 しばらくすると、裁判官と書記官が入り起立して一礼をしたあと、すぐに判決文が読みあげられ、被告人は執行猶予付きの判決を言い渡されました。緊張した面もちだった被告人は、「執行猶予...」の言葉を聞いた後、ホッとした様子で笑みを浮かべたのがわかりました。
 その後閉廷し、傍聴人が部屋を出た後、先生は正面向かって右側の弁護人席にすわり、私はその席の前のイス、妻とWさんは傍聴人席に残りました。
 しばらくすると太った目つきの悪い検事らしき人と、アシスタントらしい若い女性が山盛りのファイルを持って入廷し、検事席につきました。太った検事はファイルを風呂敷包みから出すと、瞬きもせずにセンスの悪いメガネの奥から、ずっと私を睨みつけていました。検事と被告人という立場とは言え、初めて顔を合わせる人に対して、とても失礼なガン付けのため、(なんだ、こいつは...)私も負けじと睨み返しました。
 5分ほど睨み合っていたでしょうか、そのうち裁判官が入廷し裁判が始まりました。

2010年12月9日木曜日

留置場生活を振り返って

 ここまで、留置場で私が経験した一部始終を書いたつもりですが、いくつか付け加えたいことがあります。
 留置場の看守さんは、ベテランの警察官と若手の警察官がペアで24時間交代で任務についていますが、若手の警察官は、将来刑事になる人たちが配属されるそうです。つまり、取り調べや面会前後の被疑者を監視しながら、被疑者の精神状態を確認し、将来刑事になった時に経験を活かすための修行の場ということでしょうか。
 看守さんも人間ですから、いろいろな人がいますが、私の感じたところでは、とても個性豊かな人間味溢れる人が多かったように思います。特に、2本だけたばこを吸うことが出来る、朝の運動の時簡に話しかけてくれる看守さんも多く、最近の気候のことや時事問題や、自分の近況について話してくれたりもします。ある年輩の看守さんは、自分が最近家を建てたので、庭をどうしたらいいのか迷っているとはなし、相談にのってあげたこともあります。また、こちらが出す手紙を検閲しているせいか、私が話してもいないことについてまで心配してくれたり、時にはアドバイスしてくれたりもします。
 手紙を読まれていると思うと、気分がいいものでもなく、初めは(余計なことを言いやがる)と思ったりもしましたが、その言葉が、嫌がらせでもお節介でもなく、本心で言ってくれていると気づき始めると、とてもありがたく感じられました。
 日に2,3度、制帽に何本も線の入った、おそらくこの警察署の上層部の方が見回りにきますが、その時は看守さんも緊張した様子で敬礼をし、「総員18名!移送2名!調べ1名!現在15名!!」などと、大声で、しかも早口で言わなければならないのですが、(入った時は、全く何を叫んでいるのかわからないくらいの早口の大声です)時々若手の看守さんは人数計算が合わない時があったり、言っていることが途中で意味不明になったり、言葉につまってしまったりして、お偉いサンが帰った後、「うわぁー、失敗したぁー」と悔やんでいたりします。
 面会と一日に一度回される新聞以外には、ラジオもテレビもなく、社会と隔絶された毎日の中で、そんな一時がやけに心をいやしてくれたりします。
 そういえば、看守さんの中に誰かクラシック好きな方がいるらしく、昼食の時間の20分間だけ、ラジカセからクラシックのCDがかかるのですが、ある日ベートーベンの「運命」が流れたことがあり、私以外誰も気が付かなかったらしく、私が看守さんに「この曲、ここではまずくないですか?」と言ったところ、看守さんも意味が分かったようで、慌てて曲を変えたことがありました。

 もし何かで逮捕されるようなことがあったら、どんな状況であっても、日本国民としての人権は守られているはずなので、出来るだけ速やかに弁護士を依頼することが懸命だと思います。私の場合、交通違反であったこともあり、すぐに弁護士を依頼していれば、ここまで長く留置生活を送ることはなかったのです。
 弁護士は、お金がなければ国選弁護士を無料で頼むことができます。これは無料といっても弁護士に対して国が支払うことになりますが、それも私たちが支払っている税金からということになります。
 国選弁護士を頼む場合は、預貯金や資産が50万円以下であることが条件になりますが、私の場合は、それらをいちいち証明するわけではなく、依頼書類の中の「ない」という項目にチェックを入れる程度の簡単な書類手続きだけだったので、誰でも依頼できるのではないかと思います。

 逮捕されて、留置所に拘置監禁された時点で「被疑者」となります。テレビや新聞の報道では「容疑者」と言われますが、あくまで法律上は「被疑者」です。そして、警察署内での警察官、刑事による取り調べと、地検での検事による取り調べを経て、起訴された段階で「被疑者」から「被告人」になります。
 「被告人」の段階で、逃亡の恐れや証拠隠滅の危険性と再犯の可能性がなく、余程の凶悪犯罪をおかしていなければ、私のように弁護士を介して保釈請求を出し、保釈金を支払って家に帰ることが出来ます。
 ただ、これから裁判を受ける身ですので、全ての自由が許されているわけではなく、居住地を指定され(たいがい自分の家ですが)、そこから3日以上の旅行は禁止で、3日以内でも申請せずに家を空けたことがわかれば、すぐに保釈取消になってしまい、拘置所に戻ることになります。
 私もこの事と、絶対に車の運転をしないことは、保釈の際に弁護士さんに念を押されました。

2010年12月8日水曜日

帰宅

 4月8日、午後5時の夕食の時間の直前に、看守から「面会だよ」と呼ばれ、私はやっと世田谷警察署留置場第6居室の檻を出ることができ、15番という呼称から自分の名前に戻ることができました。
 同居人のコロンビア人は、目を真っ赤に腫らしながら、便せんに何やら書いた物を手渡し、「ここを出られたら、きっと会いに行くよ。」と言ってくれました。しかし、パスポート偽造は本人も認めていることから、おそらく彼は起訴されて罰金刑で終わったとしても、強制送還はまぬがれず、その後も日本への入国は何年かは認められないでしょう。
 彼がくれた便せんには「Mi Dios Es GRANDE」(”私の神は偉大です”→意訳すると”God bless you” という意味でしょうか)と書かれていました。
 初めて入る、面会室の面会者側の部屋で、預けていた私物を全て返され、服を着替えました。いつも私に声をかけてくれる、背の低い早口でドモる看守さんが、「急いで、急いで、奥さん待ってるから、よかったな、よかったな、早くしろよ」と急かすので、ほどかれていた靴ひもを入れるのに余計時間がかかってしまい、とうとう諦めて靴ひもをいれずに部屋を出ました。
 留置事務室にいた、数人の看守さんに「お世話になりました」と頭を下げ、「よかったな、頑張れよ」と声をかけられながら、1階のロビーへ降りていきました。
 司法警察官で、最初に捕まった時の白バイのお巡りさんが見送ってくれ、「とりあえず、よかった。裁判の時は私も傍聴にいきますから、その時また会うと思うけど、なんとか会社を建て直して頑張ってください。」と、目を腫らして言ってくれました。私は、「ご迷惑をおかけしました、いろいろと心配していただき、ありがとうございました。」と頭を下げ、迎えにきてくれた妻と世田谷警察署の来たときとは違う正面玄関を出ました。
 駅まではそう遠い距離ではありませんでしたが、久しぶりに外に出たことと、ずっと歩いていなかったせいかフラフラするので、駅の近くの喫茶店に入り、1ヶ月ぶりに熱いコーヒーを飲みました。
 妻が「お疲れさまでした。」と言ってくれたとき、はじめて(やっと出られたんだ)という実感が湧いてきて、何故かボロボロと涙が止まらなくなり、他のお客にわからないように、下を向いて紙袋の荷物を探しているふりをしていました。
 家に帰ると、何も知らない子供たちが「お帰り!」と言って抱きついてきて、普段はしゃべることもコミュニケーションもなかなかとれない、自閉症の長男も私に近づいてきて、「アー、アー」と体を摺り寄せてきました。それはまるで「お帰りなさい」と言ってくれているようで、私は再び涙が止まらなくなってしまいました。
 
 翌日、会社に行ってみると、中にあった物は全て撤去されて、看板はまだかかったままでしたが、机もパソコンもテレビも来客用のソファーもなく、4台の電話だけが箱に入れられて置いてありました。わかっていたこととはいえ、体の力が一気に抜けてしまい、しばらく何もない事務所の中でへたり込んでしまいました。
 その頃私の会社は、5ヶ所の現場を抱えており、その内2ヶ所は外注さんに工事をお願いしていて、他の3ヶ所を自社で施工している状態でした。とにかく現場を仕上げるために、お客様と外注さんに頭を下げ、お客様には早急に工事を終わらせる約束をして、工事を再開することになりました。しかし、やはりその内2件は、契約を解除して欲しいとの申し出があり、既にいただいている契約金を返金しなければなりませんでしたが、私が居ない間に、そのお金も支払いにまわされており、どうにもならない状態でした。その後、自分の車や会社のトラックを売り払ったお金で、返金分の一部をお返しし、残りは待っていただくようにお願いして、なんとか承諾していただきました。
 現場のスタッフも、一人は辞めてしまいましたが、残った2名と私で工事を再開し、5月の判決の日の前日に、やっと仕上げることができました。
(つづく)

 

2010年12月6日月曜日

保釈の日

 沢山の方に迷惑をかけ、心配していただき支援していただいたお陰で、わたしは4月8日にやっと留置場から出ることができました。
 前日の夕方、弁護士の先生が来てくれたのですが、看守に「弁護士さんと面会です。」と言われたときは、保釈の可能性に対してぬか喜びしないために、かなり期待しないようにしていたこともあり、(きっと保釈が却下されたに違いない)と思いこんでしまい、かなり暗い表情だったらしく、弁護士さんに「顔色悪いですよ、体調悪いんですか?」と聞かれるほどでした。ところがその後、「おめでとうございます。今日保釈決定になりました。」と言われ、数秒間「は?」と目が点のまま動けませんでしたが、5秒ほどでやっと脳が動き出し、「えぇー、ほんとですか!ありがとうございます!!」と大声で言ってしまいました。
 先生の話によると、早めに話を進めたいと裁判官にも事前に話しておいたこともあって、6日に面談が早まり、その場で決定したということでした。保釈金も最低金額の200万で決定し、妻にも既に話してあるので、明日振り込めばその日の内に出られると言うのです。裁判の日程も、最初はゴールデンウィーク明けになるかもしれないと言われていましたが、4月27日(月)に決定し、判決は連休明けになるだろうとのことでした。
 先生の話を、夢なのか現実なのかと、頭がボーっとした状態で聞いていたのですが、この感覚は高校生の頃、初めて女性から愛を告白された時以来のことで、面会が終わって房にもどり、同居人に「どうした、なんだって?」と聞かれて、やっと我に帰った感じでした。
 結局、保釈金の200万もHさんが出してくれることになり、翌日中に釈放になったわけですが、このお金がなければ、私はやはりここを出られなかったのです。
 最初は弁護士さんから聞いた、(社)日本保釈支援協会からの融資を考えていたのですが、手続きを踏む段階で、結局申請時に1割の20万は用意しなければならないことや、手数料が結構かかることもわかり、金がないから申請しているのに、金を用意しなければ申請できないという、かなり矛盾した制度だったのです。
 保釈保証金は、判決後に全額戻っては来ますが、だからと言っていきなり200万からの金を用意できる人など、そうはいないでしょう。そして、これで一度でも外に出られるかどうかによって、この先の人生が変わってしまうこともあるでしょう。そう考えると、いかにも役人が考えるいい加減な制度だとしか言いようがありません。

 保釈金保証制度については、「池上彰の学べるニュース」でも取り上げられたのでご参照ください。
 http://www.hosyaku.gr.jp/index.html

 私にとって、この28日間の留置場生活は寂しく暗く、永遠に続くのではないかと錯覚するほど、永い永い時間でした。交通違反であるとはいえ犯罪者には変わりはなく、自分の不遜によるものであろうが、意図した仕業であろうが、犯罪をおかし人を苦しめ迷惑をかけ、心配をかけたことに変わりはないのです。
 その反省や自戒の心をえぐり取られ、憂鬱な日々を悶々と送るだけの毎日でした。
 今考えると、拘置所や刑務所に入ってしまえば、ある程度諦めがつき、落ち着いていられるのかもしれません。
 生まれて初めて経験した留置場生活は、ある意味とてつもなく大きく深く、人生のエポックとなってしまった28日間でした。
 ただ、これで終わりではなかったのです。
 タイトルの「拘置所生活」の通り、私はこの後裁判を受け、判決を経て拘置所に入りました。
 ここまでが、今回の話のプロローグとなります。

4月6日(火) 26日目 ~日記より~

 外は春らしい暖かな陽気に変わっているようだ。運動室の5cmほどのすき間から見える空は青く、新年度らしくあわただしい音が聞こえてくる。
 昨晩8時に弁護士さんが来てくれた。妻と選任契約し、裁判所に行って保釈請求も済ませてくれたとのことだった。保釈申請の際に、裁判官から「保釈金はいくら用意できるか?」と聞かれたとのことで、先生が言うには、保釈するつもりがなければ、それは聞かれないので、保釈はほぼ間違いないらしい。先生は、最低金額の200万と言ったらしいが、それが通るか、250万になるかは全て裁判官の判断によるので、わからないとのことだった。
 今週木曜日に、再度裁判官に会って、保釈要求を強く説明することになるが、もしかするとその場で保釈金額と、保釈が決定される可能性もあるという。そうなれば、すぐに保釈金を先生経由で裁判所に振り込んだとして、最短で金曜日に釈放、事務手続きが遅れたとしても、来週月曜日には出られるだろうということだった。ただし、100%ではないので、ぬか喜びにならないよう、過度な期待はしない方がいいと釘をさされた。
 俺に悪態をついた町田検事は、4月から地方にとばされたので、もうこの件に関わることはなく、裁判での担当検事は別の人になるという。先生に「だから、安心してください。」と言われた。...安心はともかく、二度と顔を見たくないのは本心だ。
 朝のタバコの時間、もう一人のここが長そうな、第3居室の人と話をした。ここに入って6ヶ月だそうだ。昨日話した人が8ヶ月だったし、結構長くなる人もいるようだ。
 タバコの時間が終わり、房に入る時に、いつもの背の低い初老の看守さんに、「どうだ、春はきそうか?」と小声で聞かれた。「まだ、わからないですね。」「そうか、まあ、頑張ってくれよ、な。」...何を頑張れば良いのか分からないが、やはり気にしてくれている心を感じて嬉しかった。
 ただ、まだトンネルを抜けたわけじゃない。このトンネルを抜けると、そこが雪国なのか、雪解けの春が待っているかは、ここを出てからじゃないとわからない。もう、自分の力だけではどうなるものでもなくなっているのだから。ただ、今ここで自分がどう動くか、ということが大切だと思っている。人間らしく、精一杯行動しようと思う。

2010年12月5日日曜日

4月5日(月) 25日目 ~日記より~

 夕べ、夜半から雨が降り出し、今日も一日雨らしい。夕べは9時の就寝時間から、夜中の2時頃まで、昔のことを思い出していたら眠れなくなり、やっとウトウトしてきたと思ったら、朝方だろうかやたらと騒ぐ新人が入ってきて、何人かの警察官にいさめられ、ガチャガチャと音をたてながら隣の7号居室に入ってきた。7号居室は他の房と遮断されていて、顔が見えないようになっている。どうやら未成年らしい。
 あまり眠れなかったせいか、少し頭が重い。
 年度が切り替わって最初の月曜日で、警察署内も忙しいらしく、いつもは朝食後早めの運動時間(たばこの時間)になるのだが、9時半になっても始まらず、10時過ぎにやっと運動時間になった。
 たばこを吸いながら、4号居室の人に声をかけられたので話をした。俺が入る前からここに居るらしいのはわかっていたが、「どれくらいになるんですか?」と訊ねると8ヶ月だという。去年の7月にここに来たというのだ。どうりで看守とも随分気さくに話をしているわけだ。ここでは一番の古株らしい。ここの貸し出しの本も、ほとんど読んでしまったとの事。
 先週中に、弁護士に依頼するための書類は提出しておいたのだが、先生はまだ来ない。今日、正式に選任して、すぐに保釈請求をお願いしたいのだが、妻の方で何か問題があったのだろうか。弁護士との契約は、妻がすることになり、その時点で着手金の半金、315000円を支払わなければならない。先週木曜日の妻との面会で了解をとり、お金はHさんが用立ててくれることになっている筈だ。
 Hさんには本当に申し訳なく、ありがたく思っている。俺がこんな状態でも信じてくれて、費用まで用立ててくれる気持ちを考えると、本当にありがたくて、ありがたくて涙が出る。このお金がなければ、俺は多分ここを出られないまま裁判となり、判決によっては一度も家に帰れずに、拘置所送りになるかもしれないのだ。ここを出たら一番に会って謝って、心からお礼を言いたい。 
 ここに居ると、ただ待つしかないのでどうにもならないのだが、いろいろと余計なことまで考えてしまい気が滅入る。先生とは今後のことをいろいろ相談しなければならない。弁護士との契約や、保釈金の融資申し込みの書類作成などといろいろあるので、妻も手こずっているのかもしれない。何しろ彼女一人で全て動いてくれているのだから、やきもきせずに、じっと待っているしかない。
 
 夕べ寝付けなかったのは、前の妻や娘たちとの生活を思い出してしまったからだ。親父の会社の資金繰りのために、前妻の実家に100万の借金を申し込んで土下座した時のこと。その後、前妻と娘たちは、金を貸す代わりに実家で預かるという、義父の要望で別居することとなり、毎週末は俺が妻の実家に行って、子供たちと過ごした日のこと。その後一年たって、やっと家族で雇用促進住宅に住み始めた時、みんなで抱き合って喜んだ時のこと。妻がいきなりリスザルを買ってきて、「モモ」と名づけ、なかなかなつかなかったこと。モモに噛まれながら、娘たちも必死に手名付けようとしている時期に、次女が高熱をだし、もしかしてこれはサルから人に感染してほぼ死に至る、エボラ出血熱ではないかと案じて、とりつく島もないほど妻が狼狽し、泣きわめいた時のこと。結局ただの風邪だとわかり、今度は妻が気が抜けて高熱を出した時のこと。夏休みにキャンピングトレーラーを引っ張り、家族とモモを連れて北海道旅行に行き、そこでもキャンプ場で妻が熱を出して薬を飲んでも下がらず、妻とモモをトレーラーにのこして、娘たちと「北の国から」のロケ現場を見に生き、最後の日に片田舎の寂れた病院に寄って、妻が点滴を打ってもらった時のこと。俺がロサンゼルスから帰ってきて、お土産の仮装パーティー用のドレスを娘たちが着て、はしゃいでいた時のこと.....。走馬燈のように次々と思い出して眠れなくなってしまった。
 一昨日から昨日にかけて、弁護士に渡すために便せん16枚もの身上書を書いているうち、昔のことを思い出してしまったようだ。
 長女はこの4月で高校2年生、次女が中学3年生、三女が中学2年生になる筈だ。長女が小学1年生の時に別れたので、今年で丁度十年になる。
 どんな娘に育っているだろうか。今まであまり考えたことがなかったが、ここにはそんな事を考えるには、もて余すほどの時間があるせいで、つい考えてしてしまう。俺を恨んでいるだろうか。いつかまた会える日がくるのだろうか。
 昔、娘たち3人と一緒に唄った「元気になろう」は、携帯でいつでも聴けるようになっている。3人は俺の中であの時のまま変わっていない。あれから10年たってしまったが、大きくなった3人の姿は、とても想像できない。妻の実家で撮った3人の写真は、ずっと財布の中に大切にとってある。
 娘たちも、まさか俺がこんな場所にいることを、考えもしないだろう。
 俺のことを、時々は思い出してくれているだろうか。勝手なことだが、死ぬ前に一度だけでいい、会ってみたい。せめて写真でもいいから、成長した娘たちを見てみたい。
 44年の人生のなかで、いろいろあった。良いことも悪いこともいろいろあったし、これからも、まだまだいろいろなことがあるのだろう。この人生を愛し、いつくしみながら、かみしめながら、残りの人生を生きていきたい。 

2010年12月4日土曜日

世田谷警察署留置所蔵書

 平日は午前10時になると、本を入れたケースが3箱出されて、漫画や小説を3冊まで借りることができます。午後3時に再度本を交換でき、夜8時に返します。
 調べや地検などに行かない限り、ずっと房に閉じこめられたままですから、本を何冊も読むことができますが、結構いたずら書きや破れている本もあって、小説を読んでいると、せっかく盛り上がってきたところで、1ページ破かれていたりします。
 私が、世田谷警察署に留置されている間に読んだ本は、
人間だもの/相田みつを
いちずに一本道 いちずに一つ事/相田みつを
ことばに生かされて/相田みつを・人生の応援歌
覚悟の法則/弘兼憲史
アメリカインディアンの教え/加藤諦三
「今、ここ」を生きる/片山源治郎
峠(上・下)/司馬遼太郎
鬼平半科帳/池波正太郎
雲ながれゆく/池波正太郎
剣客商売(待ち伏せ)/池波正太郎
雷桜/宇江佐真理
などでした。
 その他、「ゴルゴ13」や「コボちゃん」などもありましたが、マンガは特にいたずら書きが多く、とりわけエッチなシーンには定番の局部の肖像画が加えられていたり、あやしいシミがあったりするので、あまり読みませんでした。
 相田みつを氏の本は、これまであまり読んだことがなかったのですが、あーゆー場所で読むと、特に心に沁みまくり、涙がちょちょぎれたり(死語)します。
 特に気に入った詩や文章をノートに書き写したりしていました。


4月2日(金) 22日目 ~日記より~その2

 彼は熱心なカトリックらしく、朝、昼、晩と、毎日10分以上のお祈りをかかさない。夜中も俺がふと目を覚ますと、起きあがって祈っているときがある。
 彼も俺も、片言の英語で話しているのだが、普段は気さくな人柄で結構冗談も言う。ただ、家族のことを思い出すと、急に泣き出してしまう。それが日に2,3度ある。
 最初は俺もなぐさめていたのだが、最近は黙って、ただ見て見ぬ振りをしている。なぐさめたところで、どうにもならないのだ。
 ただ、「Be positive.」と言ってからは、泣きやんだ後俺に向かって「...Be positive...」とVサインをだし、「Be happy」と言うことがある。
 5人のあまり親しくもないコロンビア人の「盗み」と「偽造パスポート」。事件とすると、異国で言葉もなかな通じない事もあり、かなり困難なものになるだろう。いくら彼がやっていないと主張しても、認められない可能性の方が高い。
 既に起訴されて、今月26日には初公判も行われることになっているのだが、今日の調べはなんなのだろう。
 昨日、彼はやっと家族に短い手紙を出すことができた。
 ここに入れられて、すぐに手紙を出そうとしたところ、3ページにおよぶ家族にあてた手紙は、検閲のため日本語に訳すのに15000円かかり、エアメールで送るのに4000円かかると言われて、あきらめてしまったらしい。
 今週月曜日に、ほんの数行の短い手紙を書いて看守に出した。翻訳料は3900円だったそうだ。昨日、翻訳された日本文を見せてもらったが、内容は彼の母親宛で、家族の名前を全部書き(彼には2人の息子と、1人の娘がいる)、愛していることと、心配しないで欲しい(と書いて、その下に弁護士の住所と電話番号)、最後に「忍耐です」と書かれていた。
 初めて訪れた異国で逮捕されると、カルチャーショックもあるだろうし、法律や常識の違いもあるし、かなり複雑なことになってしまうようだ。
 彼の弁護士は、東京で唯一スペイン語を話せる弁護士なのだそうだが、彼によればかなり年輩で、いつも疲れているらしく、呼んでもなかなか来ないし、2,3日後にやっと来たと思って面会すると、「今日は疲れているから、もう帰らせて欲しい」などと言うそうだ。彼もほとほといやになると言っていた。
 国選弁護士とは言えプロ意識にかけているし、弁護士にもいろんなのがいるようだ。

2010年12月3日金曜日

4月2日(金) 22日目 午前10時40分

 日記より

 夕べから外は強い風邪が吹いており、ビルの谷間をぬける風邪の音がうるさくて、なかなか寝付けなかった。房から見える曇りガラスの向こうは曇っているのだろう、白と灰色で濁っている。
 ここに来て4度目の入浴日だった。昨日、妻が差し入れてくれた新しいスエットの上下を着た。
 夕べ、第4居室に一人、隣の第5居室に一人、新しい人が入った。ここでは「新入り」と呼ぶ。この場所にとても馴染んでしまう「新入り」という言葉の響きが、どうしても好きになれない。
 この房の同居人は、何故かさっき調べに呼ばれて行った。火曜日に起訴になっているのだから、調べはない筈なのだが。また別件で起訴されるのだろうか。
 彼は調べから帰ってくると、いつも機嫌が悪い。相当きついことを言われるらしいのだ。何日か前は、「Your father is bad!  Your mother and wife and chirld and grand father is bad!!」と言われ、刑事と目も合わせずに黙っていたと言い、その後声をあげて泣いていた。
 容疑者とは言え、人権を無視したそんな取り調べをしていいのだろうか。彼は人種差別だと言っていた。弁護士がくれた、日本人用の旅行者ポケットスペイン語会話の辞書を見て、「人種差別」という言葉を探り当てたのだ。刑事にも「アナタハ ジンシュサベツダ!」と言ったらしいが、刑事は薄ら笑いで、「No,no.」と言っただけらしい。刑事は、「私とあなたは友達なんだから、全てを正直に話してくれ。そうしないと、友達として私は悲しい。」などと言うこともあるらしい。その後、意味の分からないことを怒鳴り出すが、一切無視していると言っていた。
 彼はパスポート偽造と盗みで逮捕されている。去年の年末にコロンビアから日本に、出稼ぎ目的できたらしい。コロンビアから日本へは、ビザがないと入国できず、ほとんどのコロンビア人はメキシコ人の偽造パスポートを、10万円程度で作って日本に入るらしく、彼も当たり前のように、そうして日本に入国したそうだ。
 日本に着て3日目に、三軒茶屋近辺で仕事を探しているときに、3人のコロンビア人に出会い、同郷ということでいろいろ話をしていると、仕事を探しているなら一緒に住もうと言われて、彼らが住んでいる2DKのアパートに一緒に住むことになったらしい。それが、ある日突然大勢の警官がアパートにやってきて、「盗み」をはたらいたとして、彼を含む5人のコロンビア人は訳も分からないまま、手錠をかけられて逮捕されたというのだ。彼は全く身に覚えがないと言う。
 他の4人のコロンビア人は、みんな別々の刑務所に留置されているらしい。
 その後の取り調べで、全員が偽造パスポートでの不法侵入であることもわかってしまい、彼はそのことは認めているのだが、盗みはやっていないと言う。
 刑事の話によれば、どうやら他の4人は前から目を付けていた窃盗団の一味らしく、彼らが全員同罪だと言っているために、彼も巻き込まれてしまっているらしいのだ。
 彼は拘留されて2ヶ月近くになるが、いまだに盗みは認めておらず、しかし刑事や弁護士からも、実刑となり3年以上は刑務所にはいらなければならないと、決めつけたように言われていると言う。
(つづく)

同居のひとびと

 ここに入って同じ房の同居人は3人。
 一人は私が入る3日前に、酒に酔って公務執行妨害で逮捕された同い年の内装屋さん。彼は一週間ほどで、略式起訴されて30万の罰金を払い釈放となりました。
 その3日後に入ってきたのは、三軒茶屋でスナックを25年経営しているという、60歳のオーナー。スナックでホステスを客の席に同席させていたことが、風営法に違反しているということで、突然5,6人の刑事にふみこまれ、その場で逮捕されたとのこと。痩せ形でロマンスグレーの髪をした、穏やかな口調の紳士で、ゴルフはシングルという、留置場にいることが全く似合わない方でした。
 この人も弁護士を頼み、拘留延長されて10日ほど居ましたが、略式裁判の罰金刑で釈放されました。
 仕事の事や家のことなど、結構いろいろ話をして、これからのことを相談にのってもらったりしていました。
 釈放になる日の朝、運動の時間にタバコを吸いながら、「きっとここを出たら、最初にSさんの店に行くから。」と言うと、「そうそう、その位明るく考えなきゃ。」と、穏やかに微笑みながら言ってくれました。
 もう一人は、38歳のヒゲの濃いコロンビア人で、私が入る1ヶ月前に窃盗容疑で逮捕され、去年の暮れに、出稼ぎのために初めて日本に来て、全く日本語は話せず、母国語もスペイン語のために、私と同じでいい加減な英語を少し話せる程度でした。
 私との会話は、日本人が旅行先で使うための、小さなスペイン語ガイドブックを使いながら、ちぐはぐな英語で話していたので、初めはお互いに分かっているのかわかっていないのか、ちんぷんかんぷんでしたが、3,4日たつとなんとなく言おうとしてることがわかってきて、そのうち、冗談も言うようになりました。
 彼は熱心なクリスチャンらしく、いつも聖書を読み、朝昼晩と聖書の文章を唱えて祈りをかかしませんでした。
 私が釈放された後も、この先どうなるのか全く見えていない状態でしたので、今どうしているのかわかりません。家族にも、逮捕後は全く連絡がとれていないようでしたので、私が釈放されてから彼の家族に2,3度国際電話をかけたのですが、家族はスペイン語しか話せないため、程度の低い英語で話してもよくわからない様子でした。
 私が釈放される朝、彼は私に泣きながら、「Don't worry,Be happy.」と、私が彼に教えた言葉を言って見送ってくれました。

 

ここで聞こえる音

留置事務室から留置場のドア越しに鳴らすブザー(1回:警ら 2回:退室 3回:入室)
隣の房の話し声
トイレを流す音
4階の道場で剣道をする気合いの声
曇りガラスの向こう側 車の走る音 クラクション バイクの爆音
歩く人の声 学生の笑い声 幼児の泣き声
パトカーが拡声器で出動を伝える声とサイレン
護送車が到着し、護送される人が階段を降りる時の警察官の叫ぶ声
「護送!4名!」「逆送!4名」
調べに行く人が手錠をかけられて擦れ合う金属音
隣人が本をめくる音 隣人の屁 爪をかむ音
どこかの房で寝ている人のいびき
誰かの風邪っぽい咳
雨音
雨をハネながら走る車の音
遠くで吠える犬 カラスの泣き声
看守の持つ鍵の束の音
房を見回る看守の足音
看守台で書類にハンコを押す音
空調機の音
誰かが泣く声
心で泣く声

ジャガイモシチュー

 実はわたしは22年前、この世田谷警察署のすぐ近くの上馬のボロアパートに住んでいたことがあり、そこから自転車で池上大橋にある音楽関係の会社に通勤していたので、三軒茶屋や世田谷警察署の付近は、よく知っている場所でした。
 検察からの帰り、逆送の護送車の窓から見える街並みは、どこも懐かしい風景でしたが、それでも22年前なので、通っていた銭湯はなくなってコインパーキングになっていたり、八百屋だったところはセブンイレブンになっていました。ただ、世田谷線だけは、車両こそ新しくなっていましたが、相変わらず2両編成でした。
 当時住んでいたアパートがどうなっているかは確認できませんでしたが、多分当時でさえボロボロで、雨漏りはするし、窓の立て付けが悪くて完全に開かなかったりしていたので、もう無くなっているかもしれません。
 4畳半に小さな流しがあって、共同便所で風呂はありませんでした。
 80歳を越えた口うるさい婆さんが大家で、夜12時を過ぎると裏木戸の鍵を掛けられてしまうため、いつも窓の鍵を閉めずに出かけて、塀をよじ登って窓から2階の部屋に入っていたのでした。
 その頃つきあっていた女性は高校3年生だったのですが(私は当時22歳なので、淫行ではありませぬ)、学校が終わると、電車で3時間かけてアパートに来て、わたしが仕事に行っている間、シチューをつくって帰っていくという、なんとも胸のキュンとする、切ない青春時代だったわけですが、その後その子にふられ、「ジャガイモシチューがたべたくて...」という歌がうまれたのでありまする。
 余談でした。
 丁度自分の年齢の半分の歳に住んでいたこの場所に、逮捕されて戻ってきたのは何の因果であるのでせう。もう一度、イチから出直せという事なのでしょうか。つくづく考えてしまいました。

 世田谷警察署には、捕まって5日後に妻が2歳の娘を抱いて、父と叔父の4人で面会にきてくれました。
 15分しか時間がないので、今回のことを詫びたあとは、会社の今後のことや、お客様への連絡を伝えるだけで時間切れとなってしまいましたが、さすがに娘が帰りがけにバイバイと無邪気に手を振ってくれたあとは、房にもどってから涙が止まりませんでした。
 先ほど書いたように、長男が重症の知的障害者であるため、養護学校への送迎の合間に、何時間もかけて面会にくるのは大変なはずでしたが、それでも妻は、たった15分の面会のために電車を乗り継いで5,6度来てくれ、その度に服や本を差し入れてくれました。
 もう、一生頭があがりましぇん。
 
 弁護士以外の面会時には看守が1人立ち会いますが、面会が終わった後、こちらの会話を聞いていて、「いろいろ大変だな。」などと言ってくれる看守もさんもいて、心配してくれたり、励ましてくれたりもしました。
 以下、留置所で書いていた日記から

4月1日(木) 21日目 丸3週間
 今朝、運動(タバコ)の時間に看守さんに、「15番、奥さんが11時半頃来るらしいから、心の準備をしておいてくれ、な。」と言われた。この看守さんはもうすぐ定年という感じの年輩の方で、背が低く、話していると早口でドモルため、時々何を言っているのかわからないときもあるが、人情味があり、いろいろと心配してくれたりする。 時々鼻歌を歌っていたり、地味な冗談を言ったりして、俺は好きなタイプだ。
 昨日、15日ごとの簡単な健康診断のようなものがあり、前の人が終わるのを廊下で待っているときも、「15番、15番」と呼ばれて廊下の隅に連れて行かれ、小声で弁護士を頼んだかどうかと、保釈請求をしてもらえたのかと聞かれたので、弁護士との正式な契約が月曜日になってしまい、その時点で保釈申請をすすめてくれるそうです。と答えると、「まぁ、いろいろとあって大変だろうけど、頑張ってくれよ、な。経営者なんだからよ、な。」と心配してくれた。涙があっというまにこみ上げてきた。言葉につまり、「ありがとうございます。」としか言えなかった。考えてみると、ここに来てから優しい言葉をかけてもらったことはなく、ちょっとした言葉で、ありがたさに心がぐらつき、涙がこぼれる。

留置所で書いていた2冊の日記

2010年12月2日木曜日

検事との対面

 霞ヶ関の東京地検では、まず拘留延長の申請がされ、2,3日後に今度は裁判所に行き、裁判官から拘留延長の決定が申し渡されます。この流れは止めることはできず、どんなに哀願しても、延長されてしまうのです。
 そして、今度は区検の交通専門の検事による聴取があり、そこで今までのいきさつと、何の車を何台乗り換えたかとか、どこで給油をしたかとか聞かれ、質問に答えると、「たちが悪いなあ」とか、「それでよく会社の経営者だなんて言えるな」とか、糞味噌に言われながら調書を作成されて、最後にまとめた調書を読み上げ、内容に間違いがなければ署名と指印を押すのです。
 私の場合、長期の無免許のため、「悪質である」「常習者である」「社会性が欠落している」に加え、障害者である息子の話をだされ、「息子さんのことを裁判で話して、お涙頂戴しても無駄だからな!そんな話をして、自分が恥ずかしくないのか!」とまで言われました。
 これは、事情聴取の際に、家庭環境をひとつひとつ聞かれたから答えただけであるのに、勝手に解釈して、吐き捨てるように言われたのです。この時ばかりは私も検事を睨みました。すると、「なんだその目は、反省していないようだな。」
 この時のことは、きっと忘れることはないでしょう。
 聴取する検事と裁判に出廷する検事は違う人間らしいので、このクサレ検事には二度と会うことはありませんが、もし娑婆に出てから会うことがあったら、こう言ってやりたいと思いました。
 「あなたの様に人の気持ちが分からない人間は、人の善悪を判断しては駄目だ。もう遅いかもしれないが、再び勉強し直して職業を選び直しなさい。そうでないと無知なあなたは沢山の人に恨まれ、最低な人生を送ることになるよ。」
 後で弁護士から聞いたことですが、この50後半の検事は、何かやらかしたらしく、相当遠い地検に移動になったということでした。

 警察署での取り調べを何度かしているうち、取調官とも色々話をするようになり、証拠を挙げるために自宅や会社にまで来ていたため、結構仕事のことや今後のことまで心配してくれるようになりました。
 取り調べをしたおまわり様は、最初に捕まった白バイの方で、その同僚らしき、やはり白バイのおまわり様と、時々入れ替わりながらの取り調べでした。
 白バイのおまわり様は、白バイに乗っているだけではなく、肩書きは「司法警察官」ということで、以前は検察でも仕事をしていたということでした。
 取り調べで、できるだけ多くの証拠を挙げて、まとめた調書を検事に提出し、起訴するために内容が弱いと、再度検事に命令されて証拠を探すのですが、そのために、東京から何度もわたしの住む田舎町に足を運んだそうです。
 そして、私の会社の従業員や実家の父にも事情聴取をし、ずっと車に乗り続けていたという証言を得て、証拠として調書に追加するのです。
 3月10日に逮捕されて、25日に警察での最後の取り調べ(業界では「しらべ」と言う)があり、その時は、まとめた調書を読み上げたあと、「これで検察に提出して、その後起訴することになると思うけど、そうなったら弁護士を頼んだ方がいいよ。頼まないでいたらいつまでも出られないから。」と、小声で言ってくれました。
 つまり、私は自分が悪いので弁護士など頼む必要がないと考えていましたが、そうではなく、弁護士をたのんで保釈請求をだせば、留置所を出られる可能性があったらしいのです。
 「なんだ、そうだったのか・・・」
 拘置所で会った、同じように無免許3回目で逮捕された人に聞いたところ、その人はすぐに弁護士を頼んで保釈請求を提出して、1週間で留置場から出られたそうなのです。
 私はすぐに国選弁護士をお願いし、一度は当番弁護士が面会に来てくれましたが、起訴状が届いたのが29日だったので、すぐに私選で弁護士を依頼して、保釈請求を申請してもらいました。
 しかし、時既に遅く、会社の全てを私が仕切っていたため、家賃の支払いやお客様の工事が遅れ、どうにもならなくなっていたため、父の判断で会社の荷物は全て持ち出され、閉鎖されてしまいました。(つづく)
 

2010年11月30日火曜日

その、霞ヶ関とは...

 その、異人さんでも良い爺さんでもない制服を着た人たちに連れて行かれた場所は、田舎者にとって、よくテレビに映る国会議事堂のすぐ横の霞ヶ関だったのです。
 そこには日本の法曹界の中枢である、最高裁判所と最高検察局があり、隣には弁護士会館もあって、最高にHighな、Nowい場所だったのです。
 そんな、テレビで見て「はぁ~、とおきょおっつううのはすげんだなぁ。なんでも、あすこで、はなしがまどまるっつんだぁ~」なんて場所に、テレビに映っている誰かと同じ自分が、手錠につながれて護送車を降り、ロープにつながれて地下への階段を下りているのでした。
 もはや羞恥心などありません。みんな猿回しのようにつながれているのです。
 カッコ悪いとか良いとかでなく、みんな犯罪者扱いの人間のクズなのです。
 かと言って、お互いに話すことは許されず、これから何が起こるのかもわからないまま、クソガキもクソジジイもクソオンナもクソババアも、小さく小さくなって手錠をはめられたまま、味気もないモノクロの建物に引きずり込まれていくのです。

 大声で番号を叫びながら、猿回しの猿たちをオリに誘い込む制服の人を横目に見ながら、「世田谷15番」である私は、ビビリながら誘導にしたがい、再び待合室であるオリの中に閉じこめられるのでした。しかも、手錠をはめたまま。
 朝8時に手錠を掛けられ繋がれて、護送車に乗って7ヶ所ほどの警察署を周り、2,3人づつの被疑者がつながれて東京地検に着くのが10時半ごろ。その後、待合いのオリの中に手錠をしたまま押し込められて、全ての被疑者が戻ってくる間、ずっっと堅いかたいイスに座り続け、およそ7時間、長ければ9時間、一言もしゃべらず、眠ることも出来ずに待ちつづけるのです。
 当然、自分が呼ばれて検事と話したり、裁判官と話したりするのですが、それは先ほど書いたように建前上の面接なため、10分位でおわります。拘留延長請求を裁判所が認めるか認めないかという場合も、そこに行って面接をしますが、どんな酌量を求めようが、涙を流して土下座しようが、全くとりあってもらえず、流れ作業の中であっという間に拘留延長が裁判官によって認められ、後は首をうなだれたまま、硬くて冷たくて眠れないイスに座り、ひたすら他の人たちが終わるのを待つかないのです。
 そこで出るお昼は決まっていて、薄い食パン4枚と給食にでてきた袋に入ったマーガリンとチョコ、小さなパック牛乳と小さなチューブ入りのチーズだけです。ただ、その時だけ、20分間手錠を外してもらえます。
 税金でまかなわれている食事なので、当然贅沢は言えませんが、この時点でここに居る全ての人が犯罪者であるわけでもなく、タバコや酒を飲んでいる人がいれば、少なくともそれだけで一般市民の納税者でもあるはずです。

 そんなことをいってもはじまりませんが、この待ち時間だけでも心が萎えてしまうことは確かです。

霞ヶ関とは

 そんなわけで私も、手錠をかけられその手錠をまた他の人とロープでつながれて、朝もはよから護送車に乗って霞ヶ関にある東京地方検察局に連れていかれたのです。

 (全く関係のない話ですが、「♪ 赤いくつ~♪   はーいてた~   おーんなーのーこ~♪」の歌詞のあとは、「いい(良い)爺さんに連れられて♪いーっちゃーった~♪」ではなく、「異人さんに連れられて行っちゃった」で、あったことを知ったのは、つい最近です。.....もうしわけない。  今、ふと思い出してしまったもんで.....。)



こうして書きながら
 薄れつつある しかし忘れもしない あの記憶をたどり
自分の足跡を 確かに残していることに 癒されている
自分の人生
悲しいことも 楽しいことも
自分の生き方しだいでかわっていく
大切なのは
これからの
自分を信じて
何が出来て
何をしようかと思うこと
無理しなくても それくらいは出来るだろう
こんなに自分が好きな 自分がいるんだから


デキレース

 私が留置場に入った時には、公務執行妨害の方と不法侵入及び窃盗罪のコロンビアの方がいましたが、公務執行妨害の方は話を聞くと、三軒茶屋駅のホームで喧嘩に巻き込まれ、酒に酔っていたせいもあり、駆けつけたおまわり様に「おれは関係ねえ!」と怒鳴ったところ、唾がおまわり様の制服にかかって、それが公務執行妨害だとのことで逮捕されたとのこと。よく聞くと私と同い年の方でした。
 しかも、酒に酔って・・・の件で留置されるのは3回目だとのこと。同い年とは言え、人生経験の上ではかなりの先輩でござりまする。
 彼はこれまでの2回とも、1週間以内で出られたそうですが、その間にあった一番辛いことは、拘留延長や検察官による取り調べのために、護送されて地検に行くことだと言うのです。
 私はどのぐらい辛いのか、皆目検討もつきませんでしたが、留置されて4日目、とうとうその恐るべき地検に護送されることになりました。

 その時のことを書くまえに、その酒で云々3回目の先輩によれば、とにかくこの法曹界は、検事と裁判官と弁護士によるデキレースだと言うのです。
 先輩の話ですから、フムフムとよく聞くと、結局、社会問題になるような大きな事件ならともかく、単純な公務執行妨害であるとか、交通違反だとか、こそ泥棒のような犯罪は世の中に吐き捨てるほどあって、それを処理するためには都合上、流れ作業にのせて処理し、それは暗黙の了解となっていると言うのです。
 つまり、留置→聴取→拘留延長→検察聴取→起訴(または不起訴、これはあまりない。なぜなら、捕まえた上に拘留しておいて、起訴しなかったら逆に訴えられるから。)→弁護士介入→裁判→判決→控訴→裁判→判決→上訴(ここまでいかないのがほとんど)→裁判→判決→罪人or無罪(これも検察の権威においてまずない。検察は99%の勝利...?...をめざしているが、このところの裁判員制度で無罪確定が増えており、また、暴かれた検事や検察側の不祥事が明るみにでていることもあり、威厳が崩れかけているためにかなりあせっている)という流れがあって、この流れにのってしまえば、つまらない犯罪は相手にされないどころか、何を言っても無駄であり、法曹三界もこれを暗黙の了解で、一日何百件という案件を処理するために、簡単にベルトコンベアーに乗せてしまうのが当たり前だというのです。
 マジでぇ? 
マジだったのです。ひどいのはおまわり様ではなく、法曹三界によるデキレースなのです。
 
 この先輩の話は「へぇ~ そうなの」と、実感もなく聞いていましたが、地検や裁判所に護送された時に、私自身が実感し、相当な怒りをおぼえました。
 検事に怒りを覚えるのは仕方ないとしても、弁護士はけして味方とは限らず、裁判官も公平であるとは限らないのです。

 考えてみると、おまわり様は公務員といっても公務員の下の下からはじまれば、やはり給料だって安いし、その割にハードなお仕事をされているわけです。
 しかし、法曹界のメインの方々はそこにいるだけで既にエリートであり、ある程度の地位になれば上流社会に生きられる訳であり、(そういう方ばかりではないでしょうが、それはどの世界でも同じ)もちろんそれなりに学問をし、苦難を乗り越えたにせよ、ちっと考え方が一般peopleと違うのではないかと、思う次第であります。ハイ。
 
 ちっと、何故かコウフンしてしまいました。
コウフンは体に悪いので、今夜は寝ます。つづきはまた明日、よろすく。 

留置場でのいろいろ

 警察署の留置場は、あくまで被疑者を留置しておく場所で、起訴されるまでの間に取り調べをするために留め置かれる場所であり、起訴後は拘置所に移送になるわけですが、永い人は1年以上も留置場のままの方もいます。
 私の居た世田谷署には、去年の8月からの入っている方もいて、「運動の時間」にちょっと聞いたところによると、複数犯の場合や、なかなか罪を認めなかったり黙秘しつづけて調書がまとまらない場合、10日おきに拘留延長され続けて長い間入ることになるようです。
 その方はもちろん国選の弁護士をつけているのですが、保釈請求が却下され、今だにいつ出られるかわからないとのことで、長く陽に当たらないためか青白い顔をしていました。

 留置場にいる間はあくまで被疑者、つまり犯罪を疑われている段階であり、犯罪が確定しているわけではありませんので、一国民として平等に扱われて良いはずですし、扱われるべきですが、一度入ってしまうと到底そんなわけにはいきません。それが冤罪であったとしても、留置場に入った瞬間から、既に犯罪者に対する扱いになります。
 名前は番号で呼ばれ、常に監視されて(当然といえば当然かもしれませんが)、規則に従わない者はさらに扱いがひどくなります。自分の持ち物は全てとりあげられ、逮捕された瞬間から誰にも連絡することができなくなります。 私の場合は、逮捕となる直前に家に電話をさせてもらえましたが、現行犯逮捕のようにいきなり手錠をかけられると、家族に連絡も取れず、しばらく行方不明状態になってしまい、家族が捜索願を警察にだして、初めて逮捕されて留置されていることが分かることもあるようです。
 服は自分の物を着ていられますが、ベルトや指輪、金属類はもちろん駄目で、メガネさえ就寝時に預けなければならないのです。
 規則ももちろん厳しく、同じ房の人とでもあまり盛り上がって話していると注意されるし、態度が悪ければ一人部屋に移されます。
 風呂は5日に1度、洗い場の蛇口は3ヶ所あって3人づつ入りますが、浴槽は1人でも狭いくらいの小さな浴槽で、入浴中もドアの小窓からずっと看守に監視されます。手紙は便箋5枚までで一日1通しか出せず、内容はすべて検閲されます。ボールペンは借りられますが、午前10時から午後5時までで、危険防止のためかペン先は0.5mm程しか出ておらず、下手な字がますます下手くそになります。
 部屋は冷暖房こそ効いていますが、鉄の網と鉄格子で区切られているとはいえ、遮断するのは外側の窓だけですから、暑かったり寒かったりで、人間が長く生きられる環境でないのは確かです。
 ともかく、そんな状況で私は「一晩泊まって行け」の話が、3日になり1週間になり、とうとう1ヶ月留置されることになってしまいました。
 その原因は、後で判ったことですが、私が弁護士を依頼しなかったことがまずかったようです。
(つづく)

2010年11月28日日曜日

留置所での初夜が明けて

 これは夢かもしれない、目が覚めたらちゃんと家にいて、いつもの朝が待っているはずだと期待しながら、鉄格子の向こうの、鉄線入りの曇りガラスに写る車のライトを眺めているうちに、永い永い眠れぬ夜は明けてしまいました。
 6時半に起床の声がかかり、布団をたたんで各房ごとに布団部屋に片付け、洗面の蛇口の空いている分だけ房から出されて歯磨きをし、終わった房から順番に掃除機がまわされて、雑巾でトイレを拭きます。
 7時に小さな小窓から一畳分のゴザが入れられて、これがテーブル代わりになります。朝飯は冷たいご飯と、4分の1切れほどの魚のフライと沢庵2枚のおかずに、一番安いインスタントみそ汁(ほとんど具は見あたらない)で、みそ汁を飲み終わると、そこにお茶か白湯をついでもらいます。
 留置所の房は7室あり、同居人が2~3人いますが、私は6号房で他に公務執行妨害の方と、窃盗で逮捕されたコロンビア人の方が一緒でした。
 コロンビア人の方は日本食が合わないらしく、ほとんど食べ残していました。
 いや、コロンビア人でなくても食べ残したいほど、まずい朝食でしたが、留置所の朝食がうまいはずはないので、あきらめて腹に流し込む感じです。

 食事が終わってしばらくすると、霞ヶ関の地検や裁判所に行く人は別の小部屋で身体検査の上、手錠でつながれ、さらに手錠同士をロープでつながれて、他の警察を廻ってきた護送車に乗って出かけていきます。(行くときは「護送」帰りは「逆送」と呼びます)
 それ以外の人は、8時半になると「運動室」(8畳位の部屋で、とても運動などできるところではなく、建前上の「運動室」ですな)に行き、2,3人の看守の見守る中で、ヒゲをそったり爪を切ったりし、タバコを2本だけ吸うことができます。もちろんタバコは自前で、お金が無い人は吸えません。
 タバコを吸う人と吸わない人は、時間をずらして運動室に入るので、これもある種の分煙ですが、吸う人の場合、狭い部屋で6,7人が一度に、しかも指が火傷をするほど根本まで吸うので、部屋に煙が充満して、吸わなくても十分吸った気になるし、すぐに肺ガンになりそうな環境です。
 その後、9時頃から取り調べが別の部屋で始まり、私も2日目と3日目に午前中3時間、昼飯を挟んで午後2時から4時間ほど取り調べを受けました。
 取り調べといっても、こちらは深く深く反省しまくっていたので、刑事さんも穏やかで、話も比較的スムーズに進んでいましたが、ああいう場所ですので、緊張のせいか頻繁に尿意をもよおし、その度におまわりさん立ち会いのもと、小便や大便をするわけですが、人の排泄状況をくさい臭いをかきながら待っているおまわりさんには、非常に申し訳なく、とても気の毒に思えました。やはり、大変なお仕事なんですよ、おまわりさんも。
 そんなこんなで一日が過ぎ、夜9時には消灯となって、またまた永い永い夜が始まるのです。
(つづく)




な!なんだ、このコーヒー!?

2010年11月27日土曜日

拘置所生活3ヶ月の臭い飯の前に...

実は拘置所での3ヶ月の前に、3月10日から4月8日までは世田谷刑務所で約一ヶ月ほど冷たい飯<冷や飯>をいただいてまいりました。
<冷や飯>というだけあって、本当に冷たいのです。
そして拘置所や刑務所は<臭い飯>というだけあり、麦飯なのでちっと臭うのです。言葉は真実なのです。
3月10日、私は仕事の打ち合わせのため、首都高三軒茶屋出口をおりました。
降りるとすぐにY字路の交差点になっており、そのまま進むと246号ではなく、世田谷通りに右折してしまうため、あわてて左車線に変更したところ、あっという間に待ちかまえていた白バイのおまわり様に見つかり、拡声器で「そこのパジェロ!車線変更禁止で~す。信号の先で止まりんしゃ~い!」と声をかけられてしまったのでした。
(いつか女性から逆ナンされてみたいものだ)とつねづね思っていましたが、まさかこんな2年ぶりに来た東京砂漠で、しかも高速を降りてすぐに、おまわり様に声をかけられるとは、しかも拡声器で大きな声で、恥ずかしいったらありゃしませんでした。
とにかく、さっそくおまわり様はやってきて、小言をいわれ、免許証拝見となりましたが、実はわたくし、長い間免許取消のままでございました。
随分前に累積で点数がなくなって取消になり、取消期間の3年を目前にして再度捕まってしまい、去年の5月に、また再取得できるはずだったのが、去年3月に左足の膝を粉砕骨折して、とりに行くことができず、今年の2月に再取得者講習の申し込みをしたばかりでした。
そこでまた捕まってしまいました。
これは「運が悪い」なんてぇ事ではありません。
身から出た錆、因果応報なのです。
とうとう、おまわり様はパトカーを手配して、私は世田谷警察署の取調室に閉じこめられてしまったのです。
2時間ほど調書をとられ、夜になってしまったため、近所のそば屋「長寿庵」のカツ丼をいただいて、「今夜は一晩寝て行け」との事で、留置場に放りこまれてしまいました。
その時から私は、「世田谷15番」となったのです。
私自身、ひどいショックと、これからどうなってしまうかと不安になり、その晩は一睡もできずに朝をむかえました。
(つづく)

はじめまして

はじめまして
中年ハジ公と申します。
年齢は45歳
そろそろ中年も後半にさしかかってきておりますが、
私は今年、無免許運転のため、東京拘置所で3ヶ月間臭い飯をいただいてまいりました。

ええ年こいて、なにしてんねん。

子供も3人もいれば、自分で会社も経営しておりました。
家族崩壊はまぬがれたものの、会社は壊滅状態に陥り、
どないもこないもありまへん。
いや、別に関西の人間ではありませんが。

とにかく

このブログを通して
拘置所生活がどんなものなのか、みなさんにお伝えしようと決心いたしました。
つまるか、つまらないかは分かりませんが、
経験に基ずいて、
あくまで客観的に書いてみようかと思います。
どうぞ
よろすく。

尚、上の写真は今年8月10日に出所したおり、
小菅駅ホームから撮影した
東京拘置所でござる。
いかにも威圧的な巨大要塞でござる。




らでぃっしゅぼーや