<スポンサーサイト>

2011年1月25日火曜日

狂おしいほど恋しいもの

 私は根っからの酒好きで、若い頃は日本酒なら一升、ウイスキーでも一瓶開けてしまうほどでした。今回拘置所に入ったのも、酒が直接の原因ではありませんが、元をたどれば酒のせいといっても間違いではありません。
 この施設に入ってしまっては、酒も煙草もはなから諦めてはいるものの、やはり無性に飲みたくなるときがあります。
 ビールはそれほど好きでもないのですが、日曜午後3時から流れるFMラジオの、番組スポンサーがアサヒビールで、コマーシャルでコップにつがれるビールの音を聞く度に、涙が出るほど飲みたくなりました。 特に初夏の、丁度ビールがうまい季節ですからたまりません。ホントに、心から、狂おしいほど恋しくなりました。
 鬼平犯科帳の軍鶏鍋を食べながら酒をすするシーンを読んで舌なめずりし、雑誌の酒の宣伝を見てよだれをたらし、ラジオのコマーシャルのビールをつぐ音で七転八倒しました。そして、しまいには日記にお猪口に徳利、肴の絵まで描いてしまう始末で、こりゃーどーにもなりましぇん。一度考え始めると止まらなくなってしまうのでした。
 もちろん私はアル中ではありませんが、3年ほど前までは所謂”ガンマジーティーピー(γ-GTP)”が人の10倍ほどあり、200は軽く越えている状態でしたので、全くアル中ではないとは言い切れません。
 いやいや、そんなことではなく、人は我慢しなければいけない状態になればなるほど、欲望がふくれあがり、我慢できなくなるものであります。
  これだけ酒が好きなんだから、ここを出たら居酒屋でも始めようかと思ったりもしましたが、それは勘違いであり、酒好きが居酒屋など始めたら店の酒を飲み潰してしまうし、御法度なのであります。酒蔵が商売を続けられるのは、酒蔵の社長は下戸が多いかららしいのです。
 ここでの3ヶ月で、体もかなり健康体になったはずですが、出所したとたんにあっという間に反動で元に戻ってしまい、それどころかかえって悪化したのでした。

2011年1月21日金曜日

隣は何をする人ぞ

 C棟4階24室に移って8日目となる6月7日(月)から、未決の時と同じようにグループ運動となり、私はGグループで他の2人の人と運動の30分を過ごすことになりました。
 Uさんは36歳の独身で、神奈川県出身の外装屋さんです。私と同じく無免許で捕まり、2回目までは執行猶予がついたのが、3度目の正直でとうとう実刑となってしまったとのことで、やはり仕事上車に乗らざるを得なかったと言います。彼は逮捕後すぐに弁護士を依頼し、保釈請求をして一週間で留置所を出られ、その後の裁判で実刑になった後も、私とは違いすぐには拘置所に連れてこられずに、日にちを指定されて自ら拘置所に入ったらしく、それも弁護士のお陰だと言っていました。
 もう一人のN君は28歳の既婚者でしたが、別居中に無免許で逃走を図って捕まり、高崎警察署の留置所に2ヶ月居て、2月にここに移送されてきたため、奥さんは逮捕されたことも実刑をくらっていることも知らないだろうということでした。彼は8月4日、Uさんは7月22日が満期で、3人とも刑務所には入らずに、この拘置所で過ごす短期刑同士ということになります。
 私が最年長でしたが、同じ無免許運転の短期刑ということですぐに打ち解けて、冗談を言い合えるようになり、毎日運動の時間が楽しみになりました。
 N君の房は、私より少し離れた看守の居る警務室の向こう側の55室で、私とははす向かいで、Uさんは30室で、私と同じ並びの運動棟寄りに6つ離れたところでした。
 N君は私とUさんより少し前に入所しているので、既に両隣の住人は何人か替わったらしいのですが、入ってくる隣人が毎回問題のある人なために看守が目を光らせていて、しょっちゅうとばっちりをくうと愚痴っていました。
 入所したときの右隣の住人は、時々訳の分からないことを大声で怒鳴り、うるさくて夜も眠れないし、左隣の住人は痴呆の入った年輩の人で、そこら中に自分の汚物を撒き散らすため、臭いが漂ってきて、その激臭は目に沁みるほどだと言っていました。やっと両隣が刑務所に移送になってホッとしたと思ったら、次に入ってきた人は15分おきに報知器(看守を呼び出すボタン)を押す人で、その度に看守がやってきて、ついでに自分の部屋も覗いていくのでじっとしているしかなく、時間外に房内でしてはいけない筋トレや、洗面で頭を洗っているところを何度か見つかって、こっぴどく怒られたこともあるという事でした。
 私とUさんの房のあたりは、労役で入っている人が多く割と静かですが、それでも時々、近くの房の人のいびきや、大きな声で歌を歌っていたり、お経を唱えたりしている人も居てストレスを感じることがあります。特に消灯後は静かになり、隣の房の人の屁の音も聞こえるくらいなので、ちょっとした音が続くと気になって眠れなくなったりもします。
 私の隣の住人などは、毎晩夜中にハァハァと自慰行為で声を出すので、私はチリ紙を水で濡らして耳栓をし、布団を被って自分の知っている歌を頭の中で歌いながら眠っていました。
 

2011年1月18日火曜日

僕の好きな先生

 この拘置所には一体何人の職員がいるのでしょうか。
 拘置所の周りにはここで働く人のための公務員住宅が建ち並んでいて、朝はみなさん歩いてやってきます。すぐ近くにある東武伊勢崎線の小菅駅は、改札も1ヶ所しかない小さな小さな駅で駅の周りに商店街らしきものはありませんし、多分夜などはオイハギがでるのではないかと思われるほど、寂しい場所です。
 出所してから気付いたのですが、巨大要塞の面会者入口の前には、入所者への差し入れ品専門の小さなお店が数軒並んでいて、この町はこの要塞の収容者と、ここに働く人たちで構成されていると言っても過言ではないようです。
 府中刑務所でさえ500人もの刑務官がいるらしいので、3000人近いこの施設の収容者の人数からいくと、かなりの人がこの施設で働いていると思われます。
 ところで、この施設で入所者が接するのは、ネズミ色の制服と制帽を被った看守と、青い制服と安全靴にキャップを被った警備隊の刑務官だけで、その他の職員を目にすることはほとんどありません。
 そして、入所者は刑務官のことを「先生」と呼びます。この呼び方に私は違和感を感じると前に書きましたが、ここの先生方も、やはり人間ですのでいろんな方がおります。
 各階に担当と副担当がいて、正確にはわかりませんが、その他2,3名の警備隊が風呂や運動の時の誘導をします。
 私の居たC棟4階の担当先生は、35歳前後の中肉中背で色黒、目つきが鋭く中南米系の顔をした、かなり個性がきつく気性も荒い方でした。
 態度の悪い受刑者や不良受刑者を、しょっちゅう大声で怒鳴っており、日に一度は気が狂ったように怒りまくることがあって、その吠え方は尋常ではありませんでした。私があそこまでしょっちゅう怒鳴っていたりしたら、多分血管が本当に切れて死ぬのではないかと思われるほどの勢いです。そして、入所者を怒鳴った後も「チキショー!気分わりぃー!!」とか「ばかやろー!オモシロクネー!」とか大声で言いながら廊下を歩き、時には廊下の壁を蹴とばしながら、しばらくの間グチグチと不満を言い続けることが少なくありませんでした。
 そして、その後は必ず他の誰かにとばっちりがいき、特にその階で働く掃夫の小型の方は、格好の餌食になっていました。ちょっとしたことで、「なんだ、テメーは、やる気あんのかっ!」「なめてると一生ここで下っ働きだぞ!」などと脅し、一日中小言を言われ続けていましたが、小型君は反抗できるわけもなく、何度も何度も「すいません、すいません」と誤るばかりでした。
 しかし、この先生、感情の起伏が非常に激しく、機嫌がいいときは鼻歌を歌って廊下をスキップしていたり、食器口の小窓からニヤニヤしながら、用もないのにこちらを覗いていたりと、少し気味の悪いお方でした。
 ある時は、丁度その頃流行っていた、木村カエラの「リグリントン」というかわいらしい歌のサビの部分を「♪~リグリントン リグリンリントン♪~」と歌いながら廊下を歩いていて、それが日に何度もお歌いになるので、耳についてしまい、あまりの気色悪さにこちらが気が狂いそうでした。
 「僕の好きな先生」は決してこの方ではなく、夜勤の時に居る30歳前後の看守様でした。
 この方は異様に腰が低く、受刑者に対しても丁寧な敬語で話し、夜は15分おきに各房が異常ないか確認に廻るのですが、眠れない受刑者がいれば話し相手になっていたりしました。食事の配当なども、掃夫よりも働くし、なかなか好感の持てる看守でした。
 ただ、少し気が弱いのか、何度か受刑者に怒鳴られて謝っていたこともありましたが。

2011年1月15日土曜日

袋貼り作業

 4階に懲役として移動した日に、性格診断テストのようなものと、小学生レベルの学力テストがあり、その後別の部屋で「分類」と呼ばれる個別面談がありました。その時面談したのは看守ではなく、Yシャツを着た、あきらかに看守とは違う雰囲気の職員でした。
 書類を見ながら、「どうして無免許で実刑になったんですか?」と聞かれ、それはこっちが聞きたいことなので、「いやー、多分長い間無免許で、たちが悪かったからだと思います。」と答えるしかありませんでしたが、その人は「私はあなたの様なケースの人は初めてです」と不思議そうに首をかしげていました。そして、行きたい刑務所はあるかと聞かれたので、「特にありません」と答え、5分もかからずに一通りの面談が終わりました。
 次の日に看守がやってきて、「昨日の分類の結果、お前は短期刑ということで、移送はないから」と言われ、私は8月10日までの刑期を、この房で過ごすことになりました。
 刑務所に行ったことがないので、行かずに済んだことが良かったのかどうかわ分かりませんが、少なくとも刑務所では独居房ではなかったろうし、他の人とも話ができて、もう少し太陽の光を浴びられただろうと思います。
 入所する前に調べたところによると、関東の交通刑務所は千葉県市原市にあり、味噌と醤油を作る作業があるということだったので、作業自体を多少楽しみにはしていたのですが、ここでの作業は、朝から晩まで房の中での袋貼り作業です。週に2回の風呂と、平日30分の運動の時間以外は、房からは出られません。ただ悶々と、紙袋を折り続けなければなりません。枚数のノルマがあるわけではありませんが、それほど根を詰めていなくても、単純作業独特の疲労感があります。
 袋貼りは、デパートや鰻屋、有名ブランドや饅頭屋など様々な業種の紙袋を、「ゴリ」と呼ばれる道具と両面テープを使って折って貼ります。袋の大きさや貼り合わせ方もまちまちなので、タイプの違う袋は掃夫の人に折り方を教えてもらいます。1日に2種類ほどを、平均80枚くらいは折りますが、夕方には結構くたくたになります。慣れないうちはケツが痛くなり、変な体勢で作業していると注意されるし、薄っぺらい座布団の下に毛布を敷いているだけで、こっぴどく怒られます。何度も注意されて懲罰になった人も結構いました。もちろん、居眠りなどはもってのほかです。
 袋貼りは朝7時半から夕方4時10分まで、昼食と休憩時間を除くと、ピッタリ8時間の作業時間ですが、ここでは袋の枚数ではなく、時間給で報酬が支払われます。時給5円で日給40円です。ゼロの数が2つ違うような気がしますが、ここは拘置所であり、作業しているのは受刑者です。給料ではなく、あくまでも作業報酬なのです。それでもみなさんサボったりもせず、中には一日120枚以上作る人もいました。


6月は20日作業して1352枚作りました。この月の作業報酬は869円でした。
 

2011年1月14日金曜日

死刑執行施設

 全国には、死刑囚を収容する刑事施設が各矯正管区ごとにあって、その刑事施設の中に死刑執行施設もあります。東京拘置所も、札幌、仙台、東京、名古屋、大阪、広島、福岡の全国7ヶ所の中の一つで、茨城・栃木・群馬・千葉・東京・神奈川・新潟・山梨・長野・静岡の関東甲信越を管轄する死刑囚収容施設です。
 私が入所していた時には、男子52名、女子2名、54名の死刑囚が東京拘置所にいましたが、7月29日、ここで2名の死刑が執行され、その後、死刑場がマスコミに公開されたのは記憶に新しいところだと思います。
 その日、いつものように夕方の6時50分に、お昼のNHKニュースが流されました。トップニュースでアナウンサーが「今日午前11時頃、東京拘置所において2名の死刑囚の死刑が執行されました。」と言ったとき、この拘置所内のあちこちから「えっ」とか「うっ」とかが混ざったようなうめきが聞こえたような気がしました。私自身、一瞬体が硬直してしまいました。
 何しろ、まさに自分が今いる建物の地下で、しかも、今日死刑が執行されたというのですから。この時の気持ちはなんとも言い表しようがありませんでした。そして、検閲しているにもかかわらず、当たり前のようにこのニュースを流していることにも驚きました。このニュースを聞いた死刑囚はどんな気持ちなのかを考えると、その心中は想像を絶するものだろうと思います。
 未決の時、運動の時間に、この施設に4年もいるモリさんによると、死刑囚は5階に収容されているとのことで、確かに運動室から5階を見ると、5階だけ外廊下に沢山の観葉植物が並べられているのがわかりました。
 1966年に一家4人を殺害したとして死刑が確定し、事件に関わった判事が、冤罪だと証言した「袴田事件」の袴田さんも、74歳になる今もこの拘置所に収監されていると、アエラの記事で読んだことがあります。
 松本智津夫をはじめ、オウム真理教のサリン事件で死刑が確定している何人かも、この施設の5階にいることになります。
 私はこの夜、かなり遅い時間までなかなか眠れませんでした。


刑場は地下1階にある。刑場への出入り口となる廊下からのドアは、他の扉と同じであり、死刑確定囚がそこに入っても、刑場とは理解できないのではないかと思われる。その廊下から通じるドアを開けて中にはいると、観音像が設置されたエリアがある。そのエリアからは、アコーディオンカーテンで区切られており、その先に何があるのかは分からない。

アコーディオンカーテンを開けると、そこが刑場である。薄紫色のカーペットが敷かれた刑場(8~10畳程度)には真ん中に110cm四方程度の四角い赤枠(落とし板)があり更にその中に小さな枠がある。天井には縄を掛けるフックがある。落とし板は油圧で開く仕組みになっており死刑囚は約4m下に落下して絞首される仕組みになっている。

落下する部屋はコンクリート敷きの床である。ちょうど死刑囚が落ちてくる部分は、四角形の穴がありネットで覆ってある。死刑囚の遺体などを洗浄したときの水を流すためだ。

刑場は隣の部屋からガラス越しにて検証できるようになっている。このガラス越しの部屋は検察官や拘置所長らが死刑執行に立ち会う場所となる。この場所からは刑場の全貌が見えるとともに、執行後地階に落下した死刑囚の執行後の姿が確認できる。死刑執行を実行する刑務官の執行場所からは死刑囚の執行現場は確認できない場所にあるのではないかと推察される。
(下記ホームページより編集)
日本弁護士連合会・死刑執行停止実現委員会





2011年1月13日木曜日

C棟4階24室 1737番~未決から懲役へ~

 5月10日に拘置所に入り、それから2週間が控訴期間だということは前に書きましたが、5月25日を過ぎても何の沙汰もなく、未決囚のまま何もすることのない放置プレイに、私は嫌気がさしてきていました。グループ運動の時間に他の人に聞いても、通常は14、5日で刑の確定が通知されて他の部屋に移り、それから1~2週間で刑務所に移送になるはずだということでした。
 待つことがあまり得意ではない私は、16日目をすぎていよいよストレスが満タンになってきたころ、5月29日になってやっと担当看守がやってきて、「明日移動になるから、朝食までに荷物をまとめておくように」と言われました。
 5月30日の朝、部屋にあった食品類は全てゴミ箱に捨て、私物を施設のキャリアバックに入れて片づけました。朝食後、看守が迎えに来て房を出て、また、ここに来たときと同じ長い廊下を歩き、エレベーターに乗って、入所時に身体検査などをした地下一階の体育館のように広く天井の高い部屋に入りました。
 入所した時に領置(施設に預けた私物)した私物と、部屋に持ち込んだ私物の検査があり、今回は私物のほとんどが取り上げられ、本と歯ブラシと食器をキャリアバックに入れ、ここの官服(囚人服)と下着をを渡されました。
 私を含め50人ほどいたでしょうか。各々自分の服を脱いで素っ裸になり、だだっ広い部屋の隅の方で官服に着替えて整列しました。官服は上下ともネズミ色のよれよれの囚人服で、サイズはぶかぶかで、ズボンは縫いつけられている紐で縛ります。サンダルは薄汚れた茶色の便所サンダルでした。
 刑が確定したため懲役刑が執行され、今日から未決から既決となり受刑者となることを説明され、一人ずつ名前を呼ばれて前にでると、罪名と刑期と新しい自分の番号を伝えられました。
 再び整列して、番号を呼ばれた人から順番に部屋を出て、看守に先導されて新しい房のある棟へと向かいました。
 
 こうして5月30日、私は受刑者となり、C棟4階24室 1737番になりました。
 今度も単独室でしたが、部屋が中庭側のためか薄暗く、壁も落書きやシミで汚れています。布団も前に比べてかなり薄くなりました。もちろん規則も厳しくなり、常に定位置に座っていなければならず、態度が悪ければすぐに懲罰となって、食事以外の時間はドアの前で何日も正座をし続けなければなりません。起床時間が6時40分になり、朝食後7時30分から11時50分まで房内で袋貼り作業をし、昼食をはさんで12時30分から16時10分まで再び袋貼り作業をします。そして2,3週間後には刑務所に移送されることになります。
 房に備え付けの「所内生活の心得(既決)」にはこう書かれています。
 「この心得をよく読んで理解し、分からないことは職員に尋ね、施設での生活を通じて、ルールを守る強い精神力と規則正しい生活態度を身につけ、一日も早く社会復帰し、善良な社会人として家族や社会のために貢献できるよう、一日一日を大切に過ごすように心がけてください。」
 そして、もう一冊の「受刑者新入手引き」にはこう書かれています。
 「あなたは、先ほど懲役刑執行を言い渡され、今日から受刑生活を送っていく。この受刑生活は今日から全て行状・成績及び動静が記録され、移送された施設においても、そのデータが参考にされるので、ここに収容されている間、刑務所ではないからと言って、室内においての生活態度、作業等においていい加減な気持ちではならない。ここでは、これから尊守しなければならない規律等を順次説明していくので、後日、「聞いていない」「知らなかった」という事がないように。
 言いたいことはわかりますが、前の文章では常識的なことをやわらかく書いているのに対して、新入手引きでは、あきらかに威圧的な文章で、施設側の受刑者に対する「本音」と「建前」が見え隠れするような文章に感じます。
 また、「受刑者新入手引き」のファイルには、一般の人から選ばれた拘置所視察委員会が作製している、「小菅新聞」なるものがあり、視察委員会が受刑者と面接したり、施設を視察して拘置所の運営に意見し、改善しているというような記事が載っていました。
 その中には死刑確定者に対する処遇の改善に関する記事もあり、私はそれを読んで、この東京拘置所が死刑執行施設であり、この施設のどこかに松本智津夫や林泰男もいるのだということに気づいたのです。

 

2011年1月11日火曜日

先生と大型と小型

 この拘置所にも受刑者がいて、ここの入所者のための仕事をしています。食事を作ったり、入所時の手続きの手伝いをしたり、娑婆での職業によっては、洗濯や散髪や植木の手入れをしたりと、仕事は様々です。
 なかでも、受刑者の方が最初にやらなければならないのが、各階の入所者の世話をする仕事です。ここでは「掃夫(そうふ)」と呼ばれ、各階に2名ずつ配置されて、ベテランは”大型”、新入りは”小型”と呼ばれます。名前を呼ぶわけにはいかないために、こんな呼び方をするのでしょうが、やはりこういう施設独特の呼び方であり、非常に違和感を覚えます。
 彼らは看守の手伝いをメインにしますが、朝から晩まで実に様々な仕事をこなします。
 朝6時半には各階の詰め所に集まり、食事の配当の準備をします。点検(点呼)が終わると、「配当、配当、深皿一枚、平皿一枚」などと放送を入れ、66部屋ある各房をまわってドンブリ飯を配り、プラスチックの皿におかずを配ります。これは、朝昼晩の三食あり、昼や夜の時はおかずも2種類以上あるため、手際よくやらないと時間もかかるし、分量を均等に入れないと余りすぎたり足りなくなったりするので、結構コツがいるようです。ミスれば看守に怒鳴られ、作業をしながらもネチネチと小言を言われ続けます。そして、食事が終わると「空下げ(カラサゲ)」の放送を入れて、食べ終わったドンブリと残飯を回収して廻ります。
 願い事のときに要望があれば、各房のチリ紙、歯磨き粉などを充填し、注文された食品や雑品を配ります。
 週に2回ある官本の貸し出しの時は本を配り、食事の前にはお茶の配当と、10時と3時には缶詰開け、その他にも報知器でのランプがつけばその房に行って用件を聞いたり、下着やシーツの交換に廻ったりします。
 入所者が出ていった房の掃除と、幅4m、距離は50m以上ある廊下を掃除し、4ヶ所ある風呂の掃除もします。夏場は二週間に一度、各房のトイレの消毒もします。入所者の中には頭のおかしい人もいて、うんこや小便を撒き散らしている房があれば、それも掃除します。
 労役や懲役がいる他の階の掃夫は、この他にも袋貼りの指導もしなければなりません。
 とにかく彼らは朝早くから、夕食が終わる夕方5時頃までは、昼食後の30分ほどの休憩以外、ずっと働いており、土日祝日は大型と小型が交替で作業をするので、どう考えても労働基準法をかなり上回る労働時間を強いられているはずです。
 そして、手順を間違えたり要領が悪かったりすると、看守からかなりきつく叱られ、怒鳴られます。ベテランの大型はそれほどではありませんが、小型は新人で当然手際も悪いので、日に何度も怒鳴られ、それでも反抗するわけにはいかないので、中にはうつ病になってしまう人もいるようです。
 受刑者になれば、この掃夫の経験は通らなければならない道らしく、ここで小型から大型になり、3ヶ月以上経験を積めば、希望により別の作業に回されるようです。
 私は、いずれこれを経験しなければならないかもしれないと思うと、それだけで胃が痛くなりました。
 ところで前にも書きましたが、ここでは看守を「先生」と呼びます。もちろん掃夫もそう呼び、作業が完了した後は、いちいち確認を頼むために「先生!お願いします!」と先生に報告をします。
 何故に看守が先生と呼ばれているのか、非常に不思議です。私は日頃から「先生」と呼ぶのはお医者さんと学校の先生だけだと思っており、議員を先生と呼ぶのはもってのほかであり、弁護士や検事や裁判官を先生と呼ぶのでさえ逆職業差別であると思っているので、相当な違和感を感じます。その上、看守も「先生」と呼ばれて増長しているのか、かなり威張りくさっています。
 あんたら、単なる「公務員」ではないのか?
 やはりここは、世間一般とはかなりズレのある世界のようです。


ここでは、10時と3時に10分間、室内運動とストレッチの放送が毎日流れます。


2011年1月7日金曜日

土曜日のすごし方~日記より~

 5月22日(土) 晴
 
 目が覚めてしまった。朝5時頃だろうか。夜中も1,2回目が覚める。
 夜10時頃寝付いて次に目が覚めたとき、そろそろ夜が明けるかなと思っていたが、まだ電車の上り下りの音が結構していたので、多分1時間位しか経っていなかったのだろう。また寝入ってしまった。
 時計がないので困る。時間を知らせないことに、何の意味があるのだろう。よくわからない。それとも、ここの低次元の人間には、時間を知らせる必要などないということなのだろうか。

 今日は土曜日。土日祭日は起床時間が30分ずれて7時30分になる。朝食が8時で、夕食は平日が16時20分のところ16時になり、お昼は11時50分といつもとかわらないので、土日は朝食、昼食、夕食の間隔が4時間になる。
 体を動かしていないので、全く腹は減らないのだが、他に楽しみがないのと、残すのがもったいないので、結構量のある食事を完食し、そして間食もする。
 今までは肉体労働をしていても、朝昼食べずに夜も酒につまみ程度のことも多かったのに、ここに来てから体を動かしもせず、三食しっかり食べているので、現在確実に太りつつある。腹も少々メタボぎみになってきた。

 朝は朝食後、部屋を掃いて雑巾がけをする。床と洗面台と便器を丁寧に拭いて、すっきりしてからコーヒーを飲む。強制されていることではないが、時間をもてあましていることもあるし、週に2日しか風呂に入れないために、かなり髪の毛が抜け落ちていて、掃いても掃いてもまたどこかに一本落ちている。
 風呂の回数のせいではなく、年齢とストレスのせいかもしれない。とにかく、掃除をしてすっきりしてからインスタントコーヒーを入れてゆっくり飲む。.....今がその状態だ。(.....と、また畳に一本見つけてしまった.....)
 平日は午前中、購入品の受付や運動の時間や3日おきの風呂、日によってはゴミの回収や官本の貸し出しやらで、廊下を先生(ここでは看守を”先生”と呼ぶ、何故だ?)や警備隊や掃夫(この階の住人の面倒を見ることを仕事とする受刑者)の人たちが忙しく働いているのだが、土日はそれらもないため、かなり静かだ。
 丁度9時になったらしく、ラジオ放送が始まった。今日はベイFMだ。
 さっき、押切モエの番組で「いきものがかり」の曲が流れ、サビの「♪~帰りたーく なーったよー♪~君の待つ家にー♪~」のところを、大声で一緒に歌う声がどこかの房からか聞こえてきた。
 せつないのぉ。

 土曜日の昼食は大きなコッペパンにピーナツバターにチーズ、シチューにおしるこ。このおしるこがよくわからない。何故パン食におしるこなのか。シチューは良い。大変結構。うまいし大正解。しかし、何故おしるこ?????浸して食えとでも言うのか? ん? そう思ってやってみた。「?」
「!!」.....以外とうまいかも.....。
  とにかく完食する。腹はふくれる。

 
 夕食後の点検(点呼)が終わり、今日のスケジュールは消灯のみとなった。
 今日は午後から薄曇りで、窓の向こうの鉄線入り曇りガラスは、夕陽の落ちる時間になっても薄い灰色だった。その曇りガラスの下のルーバーのほんの少しのすき間から、ちょっとだけ外の地面が見える。この建物から30~40m先までしか見えないが、今日は午後からそこでこの施設の外構工事をしている様子が見えた。
 電設のハンドホールの設置作業で、2m角で深さ1.5mのコンクリート製ハンドホールを一段一段据え付けていた。
 昔、親父の会社にいた頃、大きな建築現場では俺もよくやっていた光景だ。
 汗と土にまみれた土木作業は、毎日が充実していた。若かったせいもあるのだろうが、疲れが心地よかった。
 ここに入る前、K邸の現場作業を3人で毎日やって、やっと完成させることができた。やはり汗と土にまみれて充実した毎日だった。俺にはこういう作業が向いているのだろう。毎日コツコツと何かを造り上げていく作業は無性に楽しい。スコップで穴を掘るのでさえも、「地球の裏側まで掘ってやる!」くらいの勢いで夢中になってしまう。バカなのだろうか。

 いままでの自分の人生のいろいろな場面で、自分のだらしなさ、無力さ、情けなさを感じ、後悔することも多い。そして44歳にもなって、こうして無免許でこんな施設に入っていることが、今までどれだけ自堕落な、甘い人生を歩いてきたかということを証明することになってしまった。
 どうすれば、もっとまともな、正しく誠実で、清く美しい人生を送れるのか、残り少ないこれからの人生を、悔いのないように生きることができるのか、もう一度、そしてもっともっと深く考えなければいけない。
 そして、せっかく与えられたこの3ヶ月の間に、その答えを導き出さなければならない。

グループ運動 「ションベンとミミクソ」

 警察署の留置場では、朝の「運動」の時間に建前上の運動室でタバコを2本吸え、爪切りやひげ剃りが許されましたが、拘置所では当然タバコは吸えません。その代わり午前か午後に30分間の運動の時間が与えられます。
 その時間になると、警備隊という看守とは違った制服とキャップをかぶった隊員が各房を周り「運動!」と呼びかけます。「お願いします」と答えると、暫くして扉が開いて廊下に出され、西側にある運動室まで移動します。居室棟の出口と運動棟の入口で身体検査をされて運動室に入りますが、その時に縄跳びをする人は縄を借りられ、爪切りをする人は爪切りと切ったカスを入れるトレイを借りることができます。
 運動は全天候型の屋根付きの10畳ほどの個室で行いますが、雑居房の人はテニスコート1面分くらいある、広い運動室でランニングをしたりストレッチをしたりします。いずれも屋上以外は屋寝付きですので、太陽を拝むことはできません。ただ、外壁は格子になっているので、3つの棟に囲まれた小さな中庭が見え、そこで植木の剪定作業をする受刑者の姿が見えたりします。
 私は独居房で、体力が衰えないように、毎日かかさず腕立てと腹筋を50回と腿上げ300回をしていましたが、運動室では縄跳びを300回、汗をかくまでやっていました。
 5月19日、入所して9日目に担当看守から「明日から運動の時間は”Lグループ”になるから、運動室の”L”と表示されている部屋に入るように」と言われました。
 次の日の運動の時間、”L”の表示のある運動室に入ると、そこには同じ未決囚の人が4人いて、もう大分馴れ合っているようで、大声で冗談を言いながら楽しそうに話していました。
 私は挨拶と自己紹介をし、無免許運転で3ヶ月の実刑であることを言うと、彼らは笑って「何それ、イヤミじゃん」と言いながら、自分たちが3,4年の求刑をされていることを教えてくれました。彼らによれば、この業界では1年の実刑でもションベン刑と言われるのだから、3ヶ月なんて耳くそ以下だというのです。
 その中の一人、通称「モリさん」はイラン人の43歳で、日本語もペラペラで自国では空手でチャンピオンになったこともあるという、ガタイのいいハゲ頭のおっさんです。(私より年下なのに”おっさん”はないか...)彼はいつも陽気で、誰でもかまわずすぐにワザをかけてきました。彼は4人の中でも古株で、この拘置所にもう4年もいるというのです。
 彼の話では、15年前に出稼ぎ目的で日本に来て、建設現場での仕事をした後、日本人の妻をめとり、自分で都内に中古車屋を開いて結構繁盛していたらしいのですが、4年前にイランに帰国して日本に戻る際に、麻薬を密輸しようとして空港で逮捕され、そのままここに入れられて、裁判で起訴内容を否認し続けているために、今だ未決囚として拘置所生活を送っているとのことでした。
 彼はもう、すっかりこの生活に慣れているらしく、いつもこっそりとアメやお菓子を運動室に持ち込んでみんなに配っていましたが、万が一、見つかったら貰った方も処罰されるので、こちらもドキドキしながら、妻からの差し入れだというイランのアマ~いアメやお菓子ををいただいていました。
 本当かどうかはわかりませんが、彼はここで押尾学やホリエモンも見かけたことがあり、ホリエモンが買った腹筋運動用のストレッチ器具が、保釈の時に寄付されて、今でも屋上の運動室に置いてあるらしいとのことでした。
 他の三人は28歳、31歳、35歳のいずれもごく普通の青年でしたが、三人ともやはり麻薬と覚醒剤で捕まっており、共に初犯だということでした。人の良さそうな優しい顔の35歳の人は、自営でハウスクリーニング業を営んでおり、昔悪かった頃の仲間から無理矢理勧められて、つい覚醒剤を手にしてしまい、打ってもいないのに警察にバレて逮捕されたということでした。会社は当然終わってしまい、刑務所を出たら、また昔の鞘に戻るしかないかもしれないと、悲しげな顔をして話していました。彼は上半身に立派な刺青が入っていました。
 どうやらこの”Lグループ”は、初犯でしかも割と軽い犯罪の人間を集めたグループらしく、モリさんによれば、殺人犯は殺人犯で集められ、犯罪によって分類されているようです。
 私は、この時初めて「ションベン刑」という言葉を知ったのでした。つまり、懲役3,4年の刑の判決でも「死刑」に比べれば「小便刑」であり、3,4年の人から見たら、3ヶ月の刑などミミクソ以下となるわけです。
 
 普段人と話す機会がないせいか、この時間のグループの運動室は、どこも冗談を言って大声で笑っていたりして、楽しげな雰囲気でしたが、私の後から入ってきた、取込詐欺で捕まった30歳前後の人は、Lグループの雰囲気に馴染めなかったのか、一度来たきりその後は別の部屋で一人でいたようでした。
 30分の運動の時間は、笑顔になれる唯一の時間であり、あっという間に終わってしまうのですが、毎日みんなこの時間を楽しみに待っているのでした。

2011年1月5日水曜日

未決囚のあいだ

 自弁(自費)で購入できるものはいつでも買えるわけではなく、月曜から金曜までの間に、月曜は食品、火曜は惣菜、水曜は雑品、木曜は郵便などと決められていて、それをこの階の担当看守が毎朝ワゴンを押しながら「願い事!食品!」と言って廊下を歩き、頼むものによって色分けされたマークシートを配ります。それにリストに載っている番号と個数を書いて渡し、届くのは3日後になります。
 「願い事」と言うのはまさしく「願い事」で、トイレの紙や洗剤や歯磨き粉をもらったり、体調がすぐれなければそれを伝えたりしますが、中には出来ない相談をする人もいるようで、担当が「そんな事できるわけねーだろ!バカヤロー!」などと怒鳴っているのが聞こえることもありました。
 私が入った5月10日の月曜日は、丁度タイミングが悪く、雑品を頼めるのが翌週の月曜日だったため、ノートもペンもなく支給されたのは19日になってしまい、日記や手紙を書くことも出来ずにそれまではただひたすら貸し出しの本を読み続けていました。
 本の貸し出しは週に2回あり、これもリストから選んで3冊借りられますが、私はこの階の66部屋中最後の66室だったため、面白そうな本はたいがい貸し出されていて、ほとんどあまり興味のないものばかり借りる羽目になりましたが、それでもすることがないので、毎日一冊以上は読破していました。



<未決のあいだに読んだ本>
マイファミリー/森 瑤子
幻の声/宇江佐 真理
生き方/稲盛 和夫(自本)
生きる/池田 みち子
果心居士の幻術/司馬 遼太郎
斬る!/柴田 錬三郎
復活/トルストイ
冬の花火/渡辺 淳一
夜の子供たち/柴田 勝茂
ビルマの竪琴/竹山 道雄

 
 独居房(単独室)の辛さの一つは、人と話すことがないことです。朝の「願い事」の時に担当看守に頼み事をする以外、人との会話はなく自然と独り言が多くなります。よくテレビに向かって話しかける人がいますが、ここにいるとラジオに話しかけたり、読んでいる雑誌に向かって話しかけたりするようになります。
 日常生活では感じることはほとんどありませんが、時計がないこともかなり不便です。7時の起床と10時、15時にはチャイムが鳴りますが、それ以外は腹時計しか頼るものがありません。特に9時の消灯以降は、夜中に目が覚めても何時なのかさっぱりわからず、鉄橋を渡る電車の音が多いか少ないかで判断したりします。しかし、人間の体内時計は大したもので、慣れてくると(あと100数えると7時だ)とか思いながら試している内に、5秒と違わずにチャイムが鳴るようになります。
 朝は7時にチャイムが鳴り、看守が廊下で「起床!」と大声で怒鳴ります。布団をたたんで顔を洗い、「点呼!」の声がかかると食器口の上の小窓の前で正座して待ち、廊下を順番に廻ってくる看守に顔を見せて、自分の番号を言います。私は、世田谷警察署では15番でしたが、ここでは人が多いせいか3201番でした。
 その後すぐに朝食になり、プラスチックの平皿と深皿2枚を食器口の台に乗せて待ちます。配膳は、この拘置所で懲役を受けている受刑者が3人ほどで一部屋ずつまわり、みそ汁とおかずを容器に入れて、麦飯の入ったドンブリを配ります。料理はおいしいとは言えませんが、ほとんどのものが味が薄く、未決囚の間は自分で購入した醤油や塩をかけたり、もう一品惣菜を加えたりして食べることができます。朝飯はみそ汁と納豆や味海苔、ふりかけなどが出ますが、2週間に一度くらいの割合で「きなこ」がでます。桜でんぶもきつかったですが、この「きなこかけごはん」は最後までなじめませんでした。
 昼食は朝昼晩の三食の中で一番ボリュームもあり、肉や魚がでますが、やはり美味しいとはいえません。ただ、月に一度の特別食の時には大きめのエビフライが2本出たり、レトルトのウナギの蒲焼きが出たりもします。夏場は夕食のデザートに氷りアイスが出たこともありました。
 食品衛生上、生ものは一切出ないので、普段はあまり食べたいと思わない、サラダが食べたくなります。ある日、夕食に野菜とフレンチドレッシングが出たので喜びましたが、それは生ではなく、温野菜で温かく、そこにフレンチドレッシングをかけた味が最高に不味くて、口に運んだ瞬間吐き出してしまったことがありました。

  


  食事が毎日の唯一の楽しみで、あとは本を読むか何か書いているかしかすることがないので、色んな事が気になったりします。
 3時はチャイムの代わりにオルゴールが流れるのですが、これが本物のオルゴールをサンプリングしたもののようで、テンポがバラバラなのは仕方がありませんが、最後の11,12小節目の音がやたらと気持ち悪い不協和音で、この音を聴くたびになんとかならんものかと思ったりしていました。




C棟7階66室 3201番

 東京拘置所は近年建て替えられたばかりで、最新のセキュリティーを備え、さながら巨大要塞のようでした。12階建ての棟が4棟中央でつながり、8台以上のエレベーターを共有して、屋上にはヘリポートがあります。西側の1棟は12階建ての運動棟になっており、全天候型の10畳程の運動室が数部屋と、テニスコート1面分ほどの運動室が各階にあります。
  拘置所の周りは高さ10mくらいの分厚いコンクリートの塀で囲まれていて、その周囲はこの施設で働く人たちの公務員宿舎があり、窓を開けると公園で遊んでいると思われる子供のはしゃぐ声さえ近くに聞こえてきます。
  そんな、どこにでもある日常がすぐ隣にあるのに、けれどもここは確かに、そびえ立つコンクリート塀に囲まれた、社会とは隔絶された場所なのです。独房の窓の外は外廊下が廻っていて、上下に付いたルーバーのわずかなすき間から、遠くのビルと高速が少し見えるだけで、7階であるからといって周囲の景色を見られるわけもなく、当然外からも中の住人の様子を伺い知ることはできません。
 建物自体が新しいので部屋はまだきれいで、一瞬、病院の個室のようではありますが、白いコンクリートの壁を良く見ると、前の居住者が書いたと思われるいたずら書きがうっすらと消えずに残っていたり、便器横の壁には何かを擦り付けたような痕もあります。
 余計なものは一切なく、さらに自殺防止のためにいろいろな工夫がほどこされています。例えば、壁につけられた私物棚は、両側の枠が丸くなっていて、紐などを掛けられないようになっていたり、タオル掛けの棒も、バルサ材でできていて、(建築関係の方はわかると思いますが、あれはあきらかに型枠に使う台形の面木でした)ちょっと力をかければすぐに折れてしまうような素材です。あらゆるものに突起や角がなく、食事の配膳時に開くA4サイズほどの小窓の棚も、角が面取りされていました。

 

       私物棚 ↓          とにかく、私はこの先の不安を抱えたまま、C棟7階66室の住人となり、これから2週間の間はは未決囚として過ごさなければなりません。判決後、2週間の間は刑が確定しておらず、その間に控訴することができますが、私の場合は控訴したところで結果は同じですので、静かに時間が過ぎるのを待つことになります。そして控訴期間が過ぎれば刑が確定し、刑務所に送られることになります。この、未決の期間はある程度の自由が認められており、(自由と言っても部屋の外には出られませんが)自弁で(自費で)リストに載っているカップヌードルや惣菜、インスタントコーヒーや下着類を買ったりできます。頭を坊主にする必要もなく、服装も囚人服ではなく自分の服を着ることも許されています。朝の9時から夜9時まで、食事の時間を除いてラジオが流れており、午前10時と午後3時にはカップヌードルやインスタントコーヒーのお湯を入れてくれ、その時に購入した缶詰の蓋を開けてもらいます。
 ただ、退屈ほど苦しいものはありません。
 本を読んだり日記を書いたりしますが、さすがに一日中そうしているわけにもいかず、段々この生活に疲れてきます。気が狂いそうにもなります。ひどく無駄な時間を送っている気がしてくるのです。
 私は控訴するつもりもないのだから、さっさと刑務所に送って欲しいと、何度も思いました。