検察からの帰り、逆送の護送車の窓から見える街並みは、どこも懐かしい風景でしたが、それでも22年前なので、通っていた銭湯はなくなってコインパーキングになっていたり、八百屋だったところはセブンイレブンになっていました。ただ、世田谷線だけは、車両こそ新しくなっていましたが、相変わらず2両編成でした。
当時住んでいたアパートがどうなっているかは確認できませんでしたが、多分当時でさえボロボロで、雨漏りはするし、窓の立て付けが悪くて完全に開かなかったりしていたので、もう無くなっているかもしれません。
4畳半に小さな流しがあって、共同便所で風呂はありませんでした。
80歳を越えた口うるさい婆さんが大家で、夜12時を過ぎると裏木戸の鍵を掛けられてしまうため、いつも窓の鍵を閉めずに出かけて、塀をよじ登って窓から2階の部屋に入っていたのでした。
その頃つきあっていた女性は高校3年生だったのですが(私は当時22歳なので、淫行ではありませぬ)、学校が終わると、電車で3時間かけてアパートに来て、わたしが仕事に行っている間、シチューをつくって帰っていくという、なんとも胸のキュンとする、切ない青春時代だったわけですが、その後その子にふられ、「ジャガイモシチューがたべたくて...」という歌がうまれたのでありまする。
余談でした。
丁度自分の年齢の半分の歳に住んでいたこの場所に、逮捕されて戻ってきたのは何の因果であるのでせう。もう一度、イチから出直せという事なのでしょうか。つくづく考えてしまいました。
世田谷警察署には、捕まって5日後に妻が2歳の娘を抱いて、父と叔父の4人で面会にきてくれました。
15分しか時間がないので、今回のことを詫びたあとは、会社の今後のことや、お客様への連絡を伝えるだけで時間切れとなってしまいましたが、さすがに娘が帰りがけにバイバイと無邪気に手を振ってくれたあとは、房にもどってから涙が止まりませんでした。
先ほど書いたように、長男が重症の知的障害者であるため、養護学校への送迎の合間に、何時間もかけて面会にくるのは大変なはずでしたが、それでも妻は、たった15分の面会のために電車を乗り継いで5,6度来てくれ、その度に服や本を差し入れてくれました。
もう、一生頭があがりましぇん。
弁護士以外の面会時には看守が1人立ち会いますが、面会が終わった後、こちらの会話を聞いていて、「いろいろ大変だな。」などと言ってくれる看守もさんもいて、心配してくれたり、励ましてくれたりもしました。
以下、留置所で書いていた日記から
4月1日(木) 21日目 丸3週間
今朝、運動(タバコ)の時間に看守さんに、「15番、奥さんが11時半頃来るらしいから、心の準備をしておいてくれ、な。」と言われた。この看守さんはもうすぐ定年という感じの年輩の方で、背が低く、話していると早口でドモルため、時々何を言っているのかわからないときもあるが、人情味があり、いろいろと心配してくれたりする。 時々鼻歌を歌っていたり、地味な冗談を言ったりして、俺は好きなタイプだ。
昨日、15日ごとの簡単な健康診断のようなものがあり、前の人が終わるのを廊下で待っているときも、「15番、15番」と呼ばれて廊下の隅に連れて行かれ、小声で弁護士を頼んだかどうかと、保釈請求をしてもらえたのかと聞かれたので、弁護士との正式な契約が月曜日になってしまい、その時点で保釈申請をすすめてくれるそうです。と答えると、「まぁ、いろいろとあって大変だろうけど、頑張ってくれよ、な。経営者なんだからよ、な。」と心配してくれた。涙があっというまにこみ上げてきた。言葉につまり、「ありがとうございます。」としか言えなかった。考えてみると、ここに来てから優しい言葉をかけてもらったことはなく、ちょっとした言葉で、ありがたさに心がぐらつき、涙がこぼれる。
留置所で書いていた2冊の日記
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